2005-01-17 MON.


1914 年に、ヨーロッパにおける政治的なテンションがバーストするようなカタチで始まった戦火は瞬く間に拡大し、当時は「最終戦争(もちろん、そんなことにはならなかったワケですが)」などとまで言われた「第一次世界大戦」に発展しました。

その下敷きとしてあったのは 1912 年に始まり、翌年には一応の決着をみたバルカン戦争(バルカン半島における民族対立を底流にセルビア、モンテネグロ、ギリシャ、そしてブルガリア系の勢力と、トルコ系のマケドニアなどの間に起きた係争に際し、セルビア系の伸張を怖れたオーストリア=ハンガリーが介入し、結果としてセルビア人の反感を買うこととなる)であり、この地域は常に国境紛争や民族間の対立・憎悪の源泉として「火種」であり続けたことはみなさまもご存知のとおりです。
そんな中、1914年 6 月28日にサラエボにおいて、オーストリアの皇太子 Franz Ferdinand が、セルビア人の Gavrilo Princip によって暗殺される、という事件が発生します(ただし、皇太子と言ってもオーストリア皇帝 Franz Josef I 世の息子というワケではなく、実際には「甥」です。ただし、当時は彼が第一皇位継承権者ではありましたが)。

当初、オーストリアの君主たるハプスブルグ( Habsburgs )王家では、当時の同国外相ベルヒトルト( Leopold von Berchtold )の予想、セルビア側に対して要求を突きつけても、最悪「局地戦」程度の小競り合いはあるかもしれないが、おそらく要求は容れられる、との進言を信じて、7 月23日にはその方向でセルビアとの交渉に入ったのですが、セルビア側はその要求に部分的にしか対応せず(これには、その背後にロシアが存在するから、とする分析が主流です。同じスラブ系民族、というつながりだったようです)、それを不満として 7 月25日には国交断絶を宣言しました。
しかしその後もセルビア側からは満足出来る回答が得られなかったことから、ついに「宣戦布告」してしまったのですが、第二次世界大戦での日本とは違い、むしろ王室と軍部は「開戦」に消極的であった、と言われています。
この背後には当時まだ王室が存在していたドイツ帝国の意向もあったと考えられます。独墺同盟を結んでいた両国は非常に密接な関係だったのですが、主にドイツ側が対セルビア強硬姿勢を主張した、と言われています。
さらに、それを刺激するようにロシア帝国がセルビアを支援するための「総動員令」を発令。これに呼応して同盟側もヴォルテージが上がり 8 月 1 日にはロシアに対し宣戦を布告。
以後、オーストリア=ハンガリー、ドイツ、イタリアの三国対、フランス、ロシア、英国にセルビアという大規模な戦闘へと拡大していきます。

この戦争では「機関銃」や「航空機」「毒ガス」などというまったく新しい兵器が投入されることにより、それまでの歩兵対歩兵、あるいは騎兵による戦闘といったものがすべて旧態化し、例えば非戦闘員である市民への無差別爆撃などという、それまでの戦闘では考えられなかった「目的のために手段を選ばず」的なメソッドが定着してゆく最初ともなりました。
互いに、旧来の突撃戦では、機関銃によって多大な被害を蒙るだけ、ということが判って、塹壕で対峙する長期戦が主流となったことで、戦争は長期化した、とも言われています。
その長かったヨーロッパでの戦況が 1918 年にはようやく休戦となるのですが、その前年にはドイツの潜水艦による無差別攻撃がアメリカの商船にも及び、それをきっかけとして、ついにアメリカ合衆国も参戦しています。
とは言っても、主戦場は遠いヨーロッパであるためもあってか、第二次世界大戦時のような緊迫感は無かったのではないでしょうか。

そんな 1918 年の 1 月27日、Mississippi 州 Holmes County の Richland にあったプランテーションで暮らす Leora Brooks というまだ 15 才の女性がひとりの男の子を生みました。
それは「私生児」であり、今もって、その本当の父は誰であったのか、は知られておりません。
その子は Elmore と名付けられましたが、すぐに Leora Brooks をその子供とともに迎えた、言わば継父 Joe Willie James が名付けた、とも言われております。
その後、一家はいくつかあった Durant 農園を小作農として渡り歩いていた、とも言われますが、主に母の意向で「やりたいことをやらせる(放任主義的な意味合いではなく、子供の自主性を尊重する、という)」育て方をされたらしく、資料によって 7 才、あるいは 10 才と多少の違いは見受けられますが、そんな年齢で自作の Diddley Bow* で音楽に親しみ始めたようです。

* Diddley Bow: Diddle は「騙しとる、インチキ」のムリヤリ形容詞化で Bow はモチロン「弓」。
もともとはホウキの柄にブラシ状の藁などを縛りつけているワイヤーをほどいてしまい、それを弦として張った単弦の楽器。その作り方を解説したサイトによれば、納屋の壁やドアの枠などに、適当な間隔で二本のしっかりしたクギを打ち(全部打ち込んじゃっちゃダメよん)その二本の間にホウキをバラして手に入れた針金を「なるべくピンと」張ります。そしたら一方のクギのそばで弦の下に差し込んで、そこで軽く弦が折れる感じになる高さの木片(弦を持ち上げる側は尖っている三角形の断面が望ましい)を用意して差し込んでブリッジとします。これを前後させることでキーに合わせてチューニングも出来る、ってワケでしょか?
その木片で持ち上げたそばをつまびくのですが、音高は太めのクギ、あるいは瓶のクビの部分、あるいはポケット・ナイフなどで押さえることによってコントロールします。いわゆる単弦スライド、ですね。
この場合、弦の振動は木片が駒となって「納屋の壁」あるいは「ドア枠」を共鳴させることで、ある程度の音量は確保できたんじゃないか、と思います。
ただ、そのままでは、その場所に行かないと弾けませんから、不便っちゃあ不便ですよね。
それを解消するために、割としっかりした(かなり強く針金を張っても折れたりしない程度の)棒状、あるいは長さとある程度厚さのある板の両端に釘を打ち、同様にしてブリッジも作れば、「ポータブルな」 Diddley Bow が完成します。
モチロン、共鳴する構造を持っていませんから、音量は期待できませんが、逆に部屋の中でいちんちじゅう弾かれて、親がキレる、なんて危険性を少しは回避できたかもしれませんねえ。
で、もう少し悪知恵がついてくると、それに共鳴させるための箱状のものを取り付けたりする、と。Cigar Box(葉巻の箱)とかね。
ブルースにおけるスライド奏法(とりわけ単弦スライド?)の源泉である、とも言われておりますが、ま、中には、そんな経験は無くて、ハワイアン・スティールに触発されて、なんてブルースマンだっていたかも?
この Diddley Bow を前後逆転さすと Bo Diddley になる・・・

10 才のころには( Diddley Bow じゃなく self made guitar としている資料がありますから 7 才で Diddley Bow、10 才では「ポータブルな」自作ギターになっていた、ってことかもしれません。一説ではその自作ギターっての、ホウキの柄とラード缶で出来ていた、とか)ギターを弾きながらブルースを歌っていた、と言いますから、いや、なかなかに早熟なほうだったのかもしれませんよ。
ところで、Diddley Bow にからんで、それを前後ひっくり返したネーミングの Bo Diddley ですが、本人もそのジョークが「お気に入り」だったようで、彼のギターがモロ Cigar Box Guitar のデザインになってるんですよねー。
本来はホウキをバラして手に入れたワイヤーを張った自作ギター、の意味なんですが、それが転じて、ちゃんとした弦が張ってあろうが、本体が自作なら、それも「 Diddley Bow 」ってことだったんでしょね。

さて、それはともかく Elmore 少年のほーは、いつごろ「納屋の壁」から、抱えて持って歩ける Diddley Bow、それとも一足跳びにホントのギターに移行したのか、そこらを詳しく著述した資料にはまだ出逢っておりませんので、正確なことは判りません。
ただし、彼自身が「自分の」ギター( National の 20$ のもの、だそうで)を手に入れたのは「 10 代の前半だった」ようです。

permalink No.1000

Search Form