2005-01-18 TUE.


すでに 10 才のころにはブルースを弾き語っていた、といいますが、おそらく 10 代の半ばでは、近所で催されるパーティに招かれ(てか、押し掛けて、かは判りませんが)チップを稼げるようになっていたから、ギターを買うことが出来たんじゃないでしょか。資料によっては、その頃すでに Juke Joint から仕事が来ていた、としているものもあります。

ところで、この頃の「メディア」の状況はどうなっていたのか?といいますと、1930 年代半ばの市場調査では、黒人家庭の 27.6% が「蓄音器」を所有していた、とされており、同時に調査された AM 放送の受信機は 17.4% と、その二つの中だけで計算し直すと、蓄音器を所有している黒人の家庭の 63% はラジオ・セットも所有している、と言うことになります(あ、これは、蓄音器を持ってる家庭が、必ずラジオ・セットも持ってる、っちゅー前提じゃないと成り立たないか?なかにゃあ、蓄音器は無いけどラジオはあるぞう、とかその逆もあるでしょから、もっと数値が下がるかも!)。
安直に考えれば、身銭を切って「ソフト(つまり 78 回転の SP ね)」を買わなきゃいけない蓄音器より、無料で次々と音楽が流れ出す Radio Set のほーが良さそうな気がいたしますよね?
それがなんでカンタンに普及しないのか?ってえと、まず当時の黒人労働者たちの収入から考えるとラジオ・セットそのものがけっこう「高価」であったこと。そして住環境の問題もありますが、電力供給を「受けていない」家屋もかなりあったそうですから、手でゼンマイを巻きさえすれば聴けた蓄音器とはワケが違う、ということ。さらにもうひとつ、やはり初期の放送は「白人の富裕層」を対象として始まっていたために、その放送内容も当然のごとく「白人文化」に偏っていた、ということ。ただし、この最後の項は、徐々に黒人たちがラジオ・セットを手にするようになり、それにつれて放送内容にも「黒人を対象としたもの」が現れてくるにつれ、別な作用を黒人文化にもたらしたのではないか、と考えることができます。

それは、それまで一般的な黒人たちが触れる音楽というものが、Juke Joint で仲間と呑みながら一緒になって踊るバックに流れてるブルースの演奏であったり、あるいはハウス・パーティに出るその辺のストリート・ミュージシャンの、これもやはりブルースやノヴェルティばかりだった(と思うんですよ)ものが、こんどはラジオからカントリーであるとか、ヒルビリー、はてはハワイアンなど、様々な音楽がタレ流されるワケです。
それらが黒人音楽に与えた影響というものも軽視することはできませんよね。

さて、以下は以前ワタクシが Paramount Records に関して書いた過去の日記の一節でございますが、それをふたたびここで繰り返しておきましょ。

当時の放送内容では、黒人音楽が On Air されることは稀であり、その意味ではレース・レコードを聴くことの「替わり」にはなっていなかったハズです。しかし、ラジオの普及は黒人の聴く音楽の範囲をこれまでの「自分たちの音楽」中心から、白人たちの音楽にまで広げたことも確かで、そのことがブルースに与えた影響が、逆に「ある種の」共通言語を持つ結果となり、それによって白人にもブルースが存在を認められてゆく獲得資質のひとつとなっていったのかもしれません。

http://www.slidingdelta.com/bluesmen/elmorejames.html では Elmore James が Durant 周辺で演奏をし始め、チップを稼ぐようになったのを 1932 年、彼が 14 才のときから、としております。やがて 1937 年には彼は Belzoni に移りますが、多くの資料ではそこで Sonny Boy Williamson IIと Robert Johnson に出逢った、としております(もちろん異説もございまして、それ以前、おそらく 1930 年代の半ばにはすでに出逢っていた、としている説もあります)。
その Belzoni では、継父 Joe Willie James と母の Leora との間に生まれたとすると、この名字はちゃうよなー、ってとこから、もしかするとその後、また違う男との間に生まれたんじゃないか?と思われる異父弟の Robert Earl Holston とともにコンビを組んで演奏したりしていたようですが、やはり重要なのは Robert Johnson 、そして Sonny Boy との交流でしょう。
おそらく Elmore James のあの独特のスライド奏法がこの時期にスタートしているのではないでしょうか。
もちろん、それをその場で見ていたワケじゃありませんから「憶測」でしかありませんが、そのインテンシティではかなりの差があるとは言え、基本的には Robert Johnson から受け継いだものが彼の中で独自に「発酵」して熟成されたのではないか、と考えています。

とは言っても、そのヴォーカル(の距離感、インパクト、温度)など、二人の間には相当な差異もまた存在し、そこらが「単なるフォロワー」ではなく「 Elmore は Elmore 」たらしめているところなのでしょうが。
ここで、元々は 1934 年の Kokomo Arnold の Sagefield Woman Bluesに由来する、と言われる Robert Johnson の Dust My Broom に触れ、Elmore James の奏法自体の代名詞となる「 Dust My Broom 調」も獲得したのだ、とする大勢の論調には、異論はございません。ま、諸手を挙げて「賛成!」ってほどではございませんが、まあ、そう考えるのが自然、ってもんかもしれませんね的ニュアンスで。

Robert Johnson のギター(ま、ブルース自体、とも言えますが)は、突然変異的に、それまでのブルースでは「あり得なかった」ものを創造した、というよりは、それまでのブルースを見事にブレンドして「完成形」を作り上げ、次世代にそれを手渡した、言わば結節点であったのではないか?というのがワタクシの Robert Johnson 観なのですが、一方この Elmore James のブルースは、まったく独自の個性に特化した、言わばエキセントリックな「発展形」という気がいたします。
その点、よく Elmore のフォロワーなどと言われる Hound Dog Taylor にしても、Elmore とは本質的に異なる、彼ならではの個性をとことん発揮した、まさに「 Hound Dog Taylor のブルース」を形成していると思うんですよね。
ま、そのあくまで個性を深化させてく生き方が「フォロワーだ」ってんなら、そうも言えますが、たいてーは単にスライドのスタイルだけを云々してるだけでしょ?その意味では Elmore のフォロワーなんていませんよ。

あ、久しぶりに見たけど、いまだに「アイスクリームマン」のオリジナルをエルモア、なんてへ~きで書いてるサイト(それも初心者がさんこーにしそうなとこ!)がある!

やれやれ・・・

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