2005-01-20 THU.


19 世紀末、徐々に世界は「全体主義」への傾斜を強めて行くことになるのですが、それは極東の一帝国でも例外ではなく、その意味では、「全体主義」はまさに「時代のトレンドであった」、とさえ言うことが出来るのかもしれません。
1904 年、まがりなりにも大国ロシアとの戦争に「勝利」し、それまではロシアの手にあった中国の旅順・大連の租借権、またその旅順から長春までの鉄道路線、そしてそれにつながる支線や鉄道を維持するための関連設備・施設までも入手した大日本帝国でしたが、それらはいずれも、本来ならば中国政府に返還されるべきものばかりであり、当然ながら、日本がそれらを自分のものとして占有することが現地で歓迎されるハズもなく、そこで、それらの鉄道及び租借地の治安を維持する、という名目で日本から派遣されたのが「関東軍」でした。
当初、その関東軍とは「友好的」であった奉天の張作霖が次第に中国共産党に接近する気配を見せたことから 1928 年 6 月 4 日には彼を暗殺し、そればかりか、その行為そのものを「国民党」の仕業であるかのように偽装し、さらに軍事的危機感を演出した、とも言えるでしょう。

暗殺された張作霖の息子、張学良は当然ながら反日感情を持つようになり、まず、満州鉄道と並行する新たな路線を建設して満鉄から鉄道収入を奪う策に出ました。
これに危機感を抱いた関東軍は一計を案じ、「お得意の」自作自演の偽装工作を実行します。
1931 年 9 月18日、奉天の北にある柳条湖を通過する南満州鉄道の路線を自ら爆破(ま、実際には修理も必要ない程度の「音だけ」の小爆発だった、とも言います。現に「爆破直後」その現場を列車が「何事もなく」通過して行った、ということですから)しておきながら、これを張学良に率いられた中国東北軍による破壊工作と言いつのり、それを口実に中国東北部を軍事制圧し、長春、営口などを占領していきました。これによって関東軍はさらに軍備を充実させる口実を得たことになり、逆に現地での反日感情はさらに強まっていきます。

本土の日本政府は戦線をこれ以上拡大しない、という方針だったのですが、軍部はこれを無視、張学良が逃げ込んでいた錦州を、「地上からの対空砲火を受けた」という口実で爆撃!
ううう、最近もどっかでこんな説明、聞いたよね~。
地上のレーダー基地からロック・オンされたのでこれを破壊した。ってヤツ⋯

そして満州を「非中国化」するために、かっての清朝の最後の皇帝でもあった第 12 代皇帝、宣統帝(せんとうてい、1908 年 - 1912 年)愛新覚羅溥儀をかつぎ出し、満州国皇帝、康徳帝(1934 年 - 1945 年)として帝位につかせ、占領を正当化しようとしたのです。

こんなことやってて、世界的に通用するハズはなく、まずこの動きに不快感を示したのはアメリカでした。
このような日本軍の行動は、1928 年 8 月27日、パリでアメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリアそして日本など 15 ヶ国が署名した「パリ不戦条約(国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄を規定した)」に違反する、として旧状に復することを主張したのですが、日本はモチロンこれを拒否。それどころか、満州への注視を逸らすために国際都市上海で日本人僧侶が中国人に殺害された「という」事件を演出(この事件に深く関わっていた、とされるのが有名な「男装の麗人」川島芳子ですが、当時、その川島芳子の秘書であった人物は実はワタクシの義母の実姉であったのでございます)し、これを口実に争乱を煽り、ついには市街戦へと拡大していきます。
そして世界の目が上海に集まっている間に満州国は 1932 年 3 月 1 日、「建国宣言」をしてしまった、っちゅうワケです。

1937 年、つまり Elmore James が Belzoni に来た年ですが、日本側の主張では「7 月 7 日に北京南部の日本軍の駐屯地に対し、盧溝橋を挟む対岸の竜王廟(国民党軍がいた、とされるところ)から発砲され、さらに合流した日本軍にもまた発砲があり、一時日華双方とも事態を収拾する方向で合意したものの、再三の銃撃をうけて日本軍が応戦。」という事でした。
この件を討議する会談がひと月後にセットされたがそのさなかに日本の海軍将校が射殺される事件が発生し収拾は失敗しています。
一応、後の中国共産党の資料に、盧溝橋事件は劉少奇の指示で日華両軍の間に戦闘を起こさせるために行われた、という記載があるとも言われているのですが、原資料が発見されていないために不明とされています。
常識で考えれば、以前の満州事変や錦州爆撃と同様に日本軍による自作自演の疑いが濃厚でしょう。

その真相はどうであれ、間違いなく日本軍は中国を蹂躙し、中国国内ではさらに燃え上がる反日闘争、と混迷を深めていくワケですが、これが流れついて行く先は当然「自信過剰」の大東亜共栄圏などという幻想から始まる「第二次世界大戦」となるワケです。

さて Elmore James ですが、1938 年に Robert Johnson が死んだ後、Sonny Boy Williamson II と南部をまわったりもしていたようですが、1939 年には Sonny Boy と別れ、自分のバンドを作った、としている資料もあります。また、時期的にはおそらくこのあたりであろうとは思うのですが、彼は電気的に音を増幅するギターを使うようになり、また一部の資料によればラジオ・セットの修理の仕事をしていた関係で、アンプの回路などを自分好みに改造して(おそらく初段のゲインを上げたりすることで「天井にぶつかる」つまりヘッド・マージンでクリップさせて)今でいうディストーション・サウンドが出せるようにした、とも言われていますがそこら真相は不明でございます。

そして 1941 年、彼は海軍に入り、太平洋海域で日本軍との戦闘に従事しグアム侵攻などを経験することになるのでした。

一週間近く続いた「わりと暖かい」日々も、また一転して明日からは冬になるかも?
ま、暦の上じゃ「大寒」ですから、寒くなるのも当たり前なんですけどね。

北西の風が吹込んで、奥羽山脈の西、日本海側にたっぷり雪を降らせる「冬型」と、太平洋上空から日本海あたりの低気圧に左曲がりに吸い込まれた湿った空気が上空の寒気の下に潜り込んで太平洋側に時ならぬ雪を降らせる「春型」が交互にきてるみたいで、その振幅が大きいので、「降る」と「融ける」の差がハゲしくなるのね。

例年の推移をチェックしてみると、やはり 1 月25日あたりに「その冬の最低気温」をマークしています。
そっからはアップ・ダウンを繰り返しながら、そのアヴェレージはジワジワと上がっていく、っちゅー展開になるワケですが、もちろん、だんだん日も長くなってって、気温よりも先に「光の春」が来る、と。

東京より、ほぼひと月遅れの春まで、あと三ヶ月くらいかあ。

permalink No.1003

Search Form