2005-01-22 SAT.


1942 年になって、東京が空襲されたことは、ある意味、日本の太平洋における制空権がずいぶん「縮小」してしまった、という現実を暗示するものでした。
そこで、アメリカの空母などを殲滅しよう、という発想からミッドウェイ攻略が計画されます。
基本的な作戦としては、ミッドウェイ島を攻撃することでアメリカ太平洋艦隊が出てくるハズなんで、これを総力で叩き潰す、と。

ところが、空母 6 隻(アメリカは 3 隻)、戦艦 11 隻(アメリカはゼロ!)、重巡 10 隻(アメリカは 7 隻)、軽巡 7 隻(アメリカは 1 隻)、駆逐艦 53 隻(アメリカは 14 隻、ただし 17:9 としている資料もあります)、艦載機 261 機(資料によっては損害だけで 289 機としているものもあります。アメリカは 233 機プラス地上基地の 120 機)という圧倒的に優位なハズのラインナップで向かった日本海軍でしたが、アメリカ側は日本軍の暗号通信をすでに解読しており、前もって作戦を練ることが出来ていたのです。
日本側は空母の護衛として霧島と榛名の 2 隻の戦艦をそばに配しただけで、大和を含む残り 9 隻の戦艦は遥か後方を航行していた、とされます。
ミッドウェイ島をハワイ同様に「奇襲」するハズが、米軍はそれに備え、島にも航空機を 100 機以上待機させ、空母からの艦載機と合わせ、圧倒的な多数で準備していたのでした。
そして日本海軍の偵察範囲を外れた盲点に配した空母からの艦艇爆撃機を殺到させ、ケッキョク赤城、加賀、蒼龍、飛龍の 4 隻の空母はこの順番に被弾し相次いで沈没しちゃいます。

この失敗により日本軍内での海軍の発言力が弱まり、それが陸軍主導の南方の諸島部への展開につながった、という分析もあるようですね。
つまり、アメリカ=オーストラリアの連絡を断ち、孤立させてオーストラリアの力を削ごう、ってワケかな。
そこで侵攻したのがガダルカナルで、さっそく同島に飛行場を設営しています。
ただし、その位置は補給線の伸び切った先端でもあり、米軍にとってはもっとも叩き易く、また叩いた効果が大きいポイントでもあったようです。
1942 年 8 月 7 日、米軍は艦砲射撃と航空機による爆撃の上で上陸を開始し、陸戦を想定していなかった、という日本軍はすぐに敗走しています。そして、これがあの悲惨な地獄の始まりとなったのでした。

8 月20日には「米軍の」飛行場として運用を開始。日本軍は部隊を補強などして奪還を狙いましたがすでに周辺の制空権はアメリカ側の手にあったため、作戦のために 1 万の兵員が必要である、と判っていてても、まず用意できるのがその 60% ほど、それの半数を輸送の途中で失い、さらに上陸させるだけでまたその 1/3 を失うありさまで、ケッキョク戦地に辿り着ける日本兵は必要な戦力の 20% 前後だった、と言いますから、それではまともな作戦も出来る訳がなく、いたずらに夜間の奇襲に拘泥しては多大な被害を蒙っていたようです。
さらに悪いことに、補給線が長大だ、ということは物資だって必要量の(いいときでも)2 割ほど、ヘタすると、輸送船はすべて撃破されちゃうワケですから、弾薬どころか、生きていくための食料すら届かなくなり、「地上の地獄」化してゆきます。
1943 年、撤退がようやく決まり、およそ 1 万人の日本兵が島を脱出しますが、その間の死者は 2 万を超えたと言われています。しかも、その中で戦闘によって死亡したのは 5,000 人ほどであったと。

この飢餓の島はしかし日本軍の太平洋における未来を暗示するひとつの予兆でもあったのです。
アメリカ海軍が、開戦時に建造を開始した空母 20 隻以上が 1943 年にはほぼすべて出揃い、同年秋からギルバート諸島、翌年にはマーシャル群島、トラック島と日本の占領地をひとつづつ潰し始めていました。
さらに日本の本土を爆撃する航空機の基地として、かっての米領グアム島やサイパンも考慮してマリアナ沖から攻撃を開始します。これに日本の機動部隊が攻撃に向かうのですが、アウトレンジ作戦と称して攻撃圏外(航空機の航続距離には自ずと限界があるため、作戦行動の後、無事に帰投できる距離が攻撃圏内のボーダーとなります。それより遠くから発進しても、その間に「空母も前進する」ので、帰りの距離は短くなる。⋯ハズだったんですが)から発進し米空母を攻撃する予定だった日本の攻撃機群は、レーダーによって行動が筒抜けになっており、高々度で待ち伏せしていた米軍機の餌食となってその大半を失ってしまいます。
それをかいくぐって米空母に接近しても、1943 年初頭から対空砲火に採用された最新技術、VT 信管( VTF: Variable Time Fuse。なんと弾頭から短波長の電波を発信し、航空機に接近すると返って来る反射波を検知して爆発する自動信管。その有効距離は 27m から 60m と諸説ある)を装備した高射砲の弾幕で多大な犠牲を出し、それどころか米潜水艦の雷撃で空母翔鶴と大鳳を失い、飛鷹は爆撃されて沈没。日本軍で残ったのは機種とり混ぜて僅か 61 機だけとなってしまいます。

このマリアナ沖海戦の敗北は、すぐさまサイパンやグアムの日本支配の「危機」を示唆するものでした。
そしてサイパンでの民間人をも巻き込んだ悲惨な結末は、米軍にも「考え直す必要を与えた」ようで、グアムではまず海兵隊と陸軍の上陸部隊を島に揚げる前に、徹底した艦砲射撃と爆撃、地上掃射が行われています。
そのための「囮」の揚陸部隊を動かして、それを攻撃してくる日本軍の砲火の設置位置を探り、そこを徹底的に砲爆撃(米軍艦船からの砲撃では 28,000 発が撃ち込まれ、米軍機が投下した爆弾の総量は 7,000 トンを超える、と言われています。日本側の航空機はすべて破壊されました)して重火器を殆ど無力化してから本当の上陸に移ったのでした。
この準備のため米軍は 600 隻(兵員及び物資の輸送船も含む)の艦船、そして 2,000 機の航空機を投入し、兵力は実に 30 万人を集結させています。
さらに先陣の上陸後も、サイパンでの教訓から、たこつぼと呼ばれる塹壕内の兵士をすべて斃してから前進し、被害を抑える、という戦法を採ったようです。
戦時資料のいくつかの記載を信じるとすると、初期の上陸作戦に投入された 55,000 人は精鋭(?)である海兵隊と陸軍上陸部隊であり、海軍は 7 月21日の上陸成功、さらに翌22日の掃討作戦開始による自軍エリアの拡大を待って Agat に上陸したのではないでしょうか。

てなワケで、我らが Elmore James 君は「おそらく」上陸部隊の奮闘ぶりを、洋上から見守っていたのではないか?と愚考する次第でございます。

ところで、この 1944 年のヨーロッパでの状況は、ってえと、以前 Sly のとこでも書いた Monte Cassino の戦いが始まった年で、さらについでに言うと(?)この年の夏、と言いますから、このグアム侵攻と相前後したあたりに「あの」 Caldonia が Louis Jordan によって初演されておるのでございますよ。
また、この年、イギリス空軍( Royal Air Force )はベルリンに 2,300 トンの爆弾を降らせています。
また米軍機がドイツの航空機製造施設を爆撃し、6 月 5 日には枢軸国の首都として初めてローマが連合国側に占領されています。その翌日には遂にノルマンディー上陸作戦がスタートし、ドイツ軍はイギリス上陸どころか、後退していくハメになりますが、イギリスに対する V1 ロケット攻撃を開始しました。
なお、グアムに米軍が上陸した 7 月21日の前日(ま、実際には時差のかんけーで「同じ日」みたいなもんでしょーが)にはヒトラーの暗殺未遂が起きています。

音楽の世界では、あの Sly Stone が 3 月に生まれ、14 年のちにプラターズが Buck Ram の歌詞を乗せてヒットさせた有名なナンバー Twilight Time のオリジナル(そう。最初のヴァージョンは Three Suns による歌詞のないインスト・ナンバーだった!この Three Suns のメンバーも、歌詞を作った Buck Ram も「白人」)がリリースされたのもこの年。またシナトラが映画初出演し、ヒット曲では Jimmy Dorsey の Besame Mucho が出た年でもありました。

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