2005-01-23 SUN.


グアム島の日本軍はメイン(?)の第 29 師団と、主に満州方面から配転されて来た独立混成第 48 旅団(陸軍)が 1944 年 3 月に補強され、米軍の上陸直前の総兵力は 20,810 名だったそうです。
このとき、本来ならばサイパン島にいなければならなかったハズの第 31 軍司令官 小畑中将が、サイパンを米軍に奪取されてしまったため、そのままグアムにとどまってそこからパラオ方面の指揮をとることとなりました。

1944 年 7 月21日早暁、そこにまず突入してきたのはアメリカ第 1 臨時海兵旅団とアメリカ陸軍の第77歩兵師団の第 305 連隊でしたが、この上陸部隊だけですでに日本側の守備兵力の 2 倍以上です!
Agat では約 2 万人の海兵隊からなる上陸部隊がすぐに日本側の守備線(重火器は海上からの砲撃と空爆で殆ど無力化していたため、兵力差がモロに出ますからね)を破壊し、米軍は自陣を確保することに成功しています。ここで海兵隊に対峙した日本側の歩兵第 38 聯隊は初戦でその兵員の半数を失い、同夜、またしても(ってのはガダルカナルと同じく、って意味ね)夜襲を敢行しますが、これもまたガダルカナル同様、朝までに「全滅」して Agat 方面は完全に米軍の支配下となったのでした。
そして以後はそこから「掃討作戦」が開始され、7 月26日には日本軍はここまでに残っていたすべての戦力を結集して総反撃をもくろみましたが、米軍の重火器の前に肉弾戦に持ち込むことすら出来ず、第 18 聯隊が全滅。28 日にはニミッツ・ヒル(日本軍では本田台と称していた)にあった第 29 師団の司令部がすでに揚陸されていた米軍の戦車数十台に包囲されて壊滅し師団長の高品中将も戦死しています。
翌 29 日には Agat の東北東約 8km ほどのテンホー山中に設営されていた第 31 軍の本営で小畑司令官は北部山中を拠点とした持久戦に入ることを決定しましたが、8 月11日には米軍がパリーヒルなどの丘陵地帯の掃討も開始したため、ついに小畑中将他の首脳が自決し、組織的な戦闘は終結しました(とは言っても、あの「恥ずかしながら」の横井さんのように山中に潜み 27 年も発見されずにいた、っちゅう例外はありますが、残った兵士で敗戦までゲリラとなって「治安を脅かす」存在となった例も多かったようです)。
この戦闘で死亡した日本軍兵士は、20,810 名と言われた守備隊のうち、実に 95%(!)にのぼったと言われています。

さて、この時期の各局地戦の記録をさらっていて気付くのは、日本側の「戦記物」と、アメリカの同じ話題を扱ったサイトでのその記述の姿勢の「差」です。
どちらも、なぜ勝敗が別れたのか、を採り上げてはいるのですが、アメリカ勢が「淡々と」勝って当たり前な背景を述べているのに対し、日本のものは、殆どがその「敗因」を司令部のミスや不運(「敵艦隊を発見できず⋯」、また「途中で入った新たな情報から、いったん取り付けた爆装をいそいで雷装に交換中に敵機の攻撃を受け⋯」などなど)に帰して、本当は勝てたかもしれないのに、という姿勢が目立ちます。
例のマリアナ沖海戦にしても、実際にはレーダーで 378km も前方で日本機の来襲を予知した米軍が全機発進させて高々度で待ち伏せして大半を撃墜し、残りも VT 信管の高射砲で次々と撃墜されていたのに、それをアウトレンジ作戦が裏目に出て、帰投できない機が大半であった。で片付けてる日本のサイトがあって、ちょっと考えさせられました。ああ、「アンラッキーが重なって負けた」と思っているうちは、真の「敗因」に辿り着くことは無いな、ってね。

まず、国力が圧倒的に違う、というところがどれだけ認識されていたのでしょうか?
また不意打ちで緒戦は先んじられても、そこからの復旧の底力を甘く見過ぎていない?
そして忘れてならないのは「知力」の「差」でしょう。
早い段階からすでに暗号は解読され、日本ではついにモノに出来なかったレーダーを実戦に投入され(さらに悪いのは、その実態、つまり、どんな性能で、どのように使えるものなのか?という正確な情報が日本側には無かった、ってこと)、その上、日本では思いもつかない VT 信管なんていう技術が実現され、日本ではそんな砲弾の「存在すら」知らなかった、そして暗号が解読されて⋯これでは勝てるワケがありません。

それはさておき、このグアムがアメリカの手に落ちたことで戦局はさらに「傾き」、日本軍の退潮が顕著になっていきます。
サイパン、テニアン、グアムは以後、米軍の前線基地となり、ここから B29 による日本本土の空襲が頻繁に行われるようになり、1945 年 3 月10日には約 300 機による東京大空襲(続いて 3/13 には名古屋、3/14 に大阪、3/17 は神戸)。
22 日には硫黄島守備隊が玉砕、さらに 1945 年の 4 月に始まった沖縄戦に投入された米軍大艦隊、約 55 万の兵力もこのグアムを 3 月に発進したものでした。
7 月に日本政府はヒソカにソ連に和平の斡旋を依頼しますがモチロン拒否され、8 月の原爆投下、和平斡旋どころかソ連の対日宣戦布告などと追い込まれたあげく、1945 年 8 月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告して降伏しました。


終戦によって除隊した Elmore James はまず Belzoni に戻ったらしく(とりあえず Memphis に向かった、という説も)、そこで Sonny Boy Williamson IIと同居して付近の Juke Joint などでの演奏を始めています。
またこの頃、いとこの "Homesick" James Williamson( John William Henderson つー説もありますが⋯)と、また資料によっては Eddie Taylor とも一緒に Memphis のクラブに出演したり、 Beale ストリートで演奏をしていた、とされていますが 1947 年にはまず Sonny Boy のバック・アップ・メンバーとして KFFA(最初、 Arkansas 州 Helena の the Interstate Grocery Building にありましたが後に the Floyd Truck Lines Building に移っています)の King Biscuit Time にも出演を開始し、やがて南に下った(あ、これ、ミシシッピー河の流れる方向で下流って意味ね) Mississippi 州 Yazoo City の WAZF から放送されていた the Talaho Syrup Show、さらに逆に北に上ったこれも Arkansas 州 West Memphis(この地名でお判りのように Tennesse 州 Memphis の対岸の街です)の KWEM から放送されていた the Hadacol Show にも出演するようになって行きます。

資料によっては、この KFFA 時代の Elmore James は Robert Nighthawk に「取り憑かれ」ていた、としている資料もありますが、Elmore James の音を聴いてみても、ま、個人的な見解に過ぎませんが、あまりこの二人の間に共通性って感じられないような気がするんですが、それほど影響って感じられますかねえ?

ちょっと変な言い方かもしれませんが Elmore を Elmore たらしめている部分というのはやはり彼独自のものなんじゃないでしょか?
もちろん、ベーシックな部分でのギターについてはそりゃ Robert Johnson から Robert Nighthawk にいたるまで共通する部分は持っているでしょうが。

いやあ、昨日のセッションではまた Black MOSES 持ってったんですが、VOX のアンプのヘッド・ゲインを上げて飽和させた音がこれまた実にいい!
Red Hot がすんげえクリアーで粒立ちのいい「解像度の高い」音って感じなのに対し、この Black MOSES ってヤツ、ずいぶんキャラクターが違ってて、ひたすらワイルド&タフ、刺激的、熱い、ヘヴィ、ストレート、なんてキーワードが似合いそな熱血漢(?)系のギターでございます。どっちかってえとスポーツ感覚で弾けるギターかも。

ところで松宮選手はまたまた新しいベース、Morris(なんか ex ダウンタウン・ブギウギ・バンドのスペシャルらしいです)を持ち込んで来てました、ちょっと弾かせてもらいましたが、もの凄〜い弾き易い!ベキバキ系の音もいいし、小ぶりなボディのせいか不鮮明なとこのないハッキリした音像を結んでましたね。

そーいえば昨日はタクロンもいつもとちゃうのを持ってきてましたよ。本来はれっきとした Gibson Les Paul STD. だったと思うんですが、そいつのリア P.U. を外してしまい、だもんだから 2V/2T じゃなく V&T だけになってて、さらに本来ならフロント:リアの切り替えスイッチのとこにトーン・コントロールみたいなんがついてまして、ほなあっちの V&T はなんじゃろ?
そしてタクロンの友人は G&Lで参加してくれましたが、あれって P-90 みたいな P.U. 使ってるのね。
後半はベーサーMと藤井クンも来てくれてラストをシメました。

しかしまあ、つくづく Black MOSES ってファットな音作りにすると「生き」ますねえ。
Red Hot だと「繊細な」プレイをココロガケるよになるんですが、こいつだとなんでだか「気が大きく」なっちゃってバリバリ弾きまくっちゃいます。

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