2005-01-24 MON.


第二次世界大戦が終結した 1945 年当時の他のブルースマンたちを思いつくままに挙げてくと、まず Eddie Taylor 、彼は Memphis でトラックの運転手をしながら仕事がオフのときには Beale ストリートや周辺のクラブなどで演奏していたようです。後の相棒となる Jimmy Reed は 1943 年に来た Chicago から海軍に入っており、終戦で退役するとすぐに Mississippi 州に一度戻った、とされてますねえ。そこで結婚して再度北上、と。
ところで Gatemouth は、ってえと、彼にギターとヴァイオリンを教えてくれた父が死んだのが 1945 年だったそうでございます。
Chuck Berry はその前年に起こした例の車泥棒事件で刑務所の中。
そして John Brim が Chicago に出て来た年でもあります。
また Jimmy Rogers は Arkansas 州 Helena で Houston Stackhouse と King Biscuit Time に出てたころでしょか。
ま、もちろん、マジで調べりゃまだまだありますが、ちとメンドーになってきたんでこれくらいにして、と。

おっと、ヨーロッパをほったらかしにしてましたねえ。
ま、いちおーカンタンにまとめとくと、1945 年にはソヴィエトが本格的な西進を始め、1 月17日にはワルシャワ入り、27日にはアウシュヴィッツなどの強制収容所での大量虐殺を「発見」しています(いまだに、これをフィクションだ、などと強弁する者たちがいるらしく、やはり自民族の犯した「過ち」を認めない「弱虫」は洋の東西を問わず存在するもののようです。それを認める勇気も無いよな腰抜けが「愛国者」ヅラをしてんだからヤになりますねえ)。
2 月にはヤルタ会談で(スターリン、チャーチル、ルーズヴェルト)ソヴィエトが日本に宣戦布告することを決定。
これ以降もソヴィエト軍の戦功が多いのですが、これはいわばナチス・ドイツの背中から攻めてるよなもんですから、ワリと容易だった、ってえことかもしれません。
米英軍は主にドイツの都市を爆撃することで、全ドイツの各システムを機能停止に追い込んでいます。ただ 4 月12日には病気が進行し、アメリカ大統領 Franklin Delano Roosevelt が死去、副大統領だった Harry S. Truman が後を継ぎました。
そして 4 月25日にはエルベ川で東西から米軍とソヴィエト軍が到達して合流しています。この時にはその後の「冷戦」なんて予想も出来なかったんでしょか?
4 月30日にはヒトラーの自殺死体を発見、とソヴィエト軍が発表し、もはや第三帝国は壊滅したのでした。実際の降伏調印は 5 月 7 日ですが、次の日が V-E Day( Victory in Europe )となっています。
さらに日本も降伏して実質的に第二次世界大戦は終結し、8 月14日(日本では 8 月15日)が V-J Day( Victory over Japan Day )となりました。
そして 9 月 8 日には朝鮮半島の南半分をアメリカ軍が、北半分をソヴィエト軍が占領しています。ま、これが「次の火種」になるのですが。

それはともかく、アメリカは戦勝気分に乗って、社会情勢は大きく動き始めます。戦時下の抑圧された経済活動が軛を解かれ、様々な動きが出てきますが、それは音楽業界でも例外ではありません。
ただし、戦前の大きな流れであった大人数によるダンス・ミュージックのための楽団、あるいはジャズ・オーケストラとも呼ばれたいわゆる Big Band は、その構成メンバーが出征したまま帰らなかったり、また演奏できる場も減ったりしたために一時の勢いは無く、そこに所属していたかってのメンバーたちはポジション(とウデ?)にもよりますが、小コンボに組み直したり、あるいは徐々にマーケットが拡大しつつある R&B 系のスタジオ・ミュージシャン、あるいはライヴでのバック・ミュージシャンとしての仕事に流れて行っています。

そして戦争によって多くの白人男性が徴兵されて行ったことにより発生した都市部での空隙を埋めるように南部諸州から流入してきた黒人たちによって、それまでマイルドで都会的なテイスト(?)でシカゴを代表していた Bluebird サウンドとはちょっと違う、猥雑なエネルギーに満ち、シンプルでストレート、かつもっと重心の低いブルースがマックスウェル・ストリートなどから広がり始め(あの名盤 Barrel House bh-04 Chicago Boogie なんてのが、そのあたりをよく反映しているように思います。戦後シカゴ・ブルースの先駆けとなった「最重要」アルバムですよ)、クラブの音から次第にレコードの世界にまでそれが浸透していって、1950 年代のシカゴ・ブルースとなっていく、っちゅーワケでしょね。

Elmore James の初レコーディングは 1951 年の Sonny Boy Williamson II の Eyesight to the Blind のバッキングらしいのですが、その直前の 1949 年には一時ピアニストの Willie Love のバンドにもいたとも言われています。
その Willie Love が Sonny Boy の紹介で吹込んだとされる Trumpet での録音を集めた Trumpet Masters, Vol.1: Lonesome World Blues( Collectable )は持っていませんが、Discog のデータでは Willie Love & The Three Aces, featuring Little Milton & Elmore James. Recorded 1951 - 1953 と記されております。
CD のライナーには Willie Love がバックに Elmore James、Joe Willie Wilkins、Little Milton Campbell の三人を手配した、とありますので Three Aces ってのがその三人のことなのかも?⋯でございます。
なお Willie Love 自身は 1953 年 8 月19日にアルコール依存が原因とされる合併症で死亡しております。

というところで、話はこのまま Elmore James 自身の初レコーディングへと進みそなもんですが、ちょっと待ってね。
ここでまたしても戦争が勃発いたします。
前述したように 1945 年 9 月 8 日、それまで日本が統治していた朝鮮半島は南部をアメリカが、北部をソヴィエトがそれぞれ「乗り込んで」軍政下に置き、それぞれ自主独立への道を歩き始めておりました。この「住み別け」自体はヤルタ会談での合意事項です。
しかし、その後、アメリカとソヴィエトはそのイデオロギーの問題も含めて徐々に対立が顕在化し、「冷戦」の時代へと入って行くワケで⋯

1946 年 2 月には、それまで抗日運動のリーダーであった金日成が朝鮮臨時人民委員会を設立し、事業の国有化など、共産主義を推進しますが、南部ではそれに反発して 1947 年の 6 月に李承晩が「南朝鮮過渡政府」をスタートさせます。
また、半島の共産化に危機意識を抱いたアメリカは国連に朝鮮での調停を期待しましたが、それが動き出すのを待たずに 1948 年の 2 月には金日成が朝鮮人民軍を組織し、3 月には南部への送電を停止!
これに対抗するかのようにアメリカは 8 月13日、李承晩を首班とする大韓民国を建国させています。これがまた金日成を刺激して、北側はソヴィエトの援助のもと 9 月 9 日に朝鮮民主主義人民共和国を建国。

金日成は建国してすぐ、朝鮮半島からのアメリカ軍の掃討を計画していたようですが、この時点でのアメリカとの直接対決は望ましくない、と判断したヨシフ・スターリン(これも原語で書きたいとこだけど、あのロシアのキリル文字とかってのじゃ、ちゃんと表示すんのにコード使わなきゃいけないようだし、おそらくそれじゃ大抵の方は「なんと書いてあるのか」さえ判らないと思いますからカタカナで)は12月に半島からソ連軍を引き揚げています。
ま、それに呼応したんでしょか、翌 1949 年 6 月にはアメリカ軍も軍政から、李承晩政権に委譲し、司令部を半島から撤収。
ま、これで、ひとつのピークは超えたように思われたのでしたが、この半島情勢にはもうひとつのファクターが関与してきます。

およそ 3 年以上にわたった中国の内戦も、アメリカがもはや援助しても無駄(?)と見切りをつけた蒋介石の国民党を、毛沢東率いる中国共産党が完全に圧倒し、これが中華人民共和国へとなるのですが、1950 年 3 月に金日成はモスクワを訪れ、直前( 1950 年 1 月12日)にアメリカ国務長官 Dean Acheson がナショナル・プレス・クラブで語った、「アメリカの防衛責任範囲」の中に朝鮮半島が含まれていなかった(ただし、実際には米韓軍事協定を結んでいたために含めなかったもののようです)ことから、朝鮮半島を統一する好機であり、開戦したい、という意向をスターリンに伝えたところ、毛沢東の「同意」を条件として許可が与えられた、と言われています。
そこで 5 月には金日成が中国を訪れ、同意とともに、支援も取り付けることに成功しました。

そして 1950 年 6 月25日、北朝鮮軍の兵力、約 10 万が 38 度線を越えて侵入を開始します。
それを受けて 6 月27日、国連の安全保障委員会はソ連が「中華民国」と「中華人民共和国」の両中国の処遇をめぐる安全保障委員会の対応に抗議するために欠席したその空隙を衝いて「北朝鮮弾劾決議」を採択し、これを「錦の御旗」として米軍を主体とする国連軍が、兵力 25 万を半島に投入することが決定されました。

しかし、緒戦は機先を制した北朝鮮軍が圧倒し続け、6 月28日にはソウルも占拠されてしまいます。
急ぎ日本国内に進駐していた米軍が半島に派兵されましたが、準備不足のために反攻どころかジリジリと追いつめられ、洛東江まで後退。ここでマッカーサーは戦陣の補強を行って保ちこたえさせ、9 月15日には仁川に国連軍を上陸させることに成功しました。これによって南部まで伸び切った北朝鮮軍は挟み撃ちにされたことで形勢が逆転し、28 日には国連軍がソウルを奪還しています。
しかし、李承晩の軍部はこれまた金日成と同じ発想で、逆に北に進攻して半島を統一しよう、との野望から、国連軍の承認を取り付けて 38 度線以北に攻め込みました。もちろん韓国軍単独ではいずれ撃退されるのは当然で、この事態に中国は「国連軍も越境してくるようであれば我が国は朝鮮民主主義人民共和国支援のため、人民解放軍を投入する」と警告を発したのですが 10月 9 日には国連軍も 38 度線を越えて進撃したため、中国は彭徳懐を司令官とした抗美援朝義勇軍(ここでの「美」とは、アメリカをさす「美国」ね)20 万人を派遣。
10月20日、国連軍は平壌にまで達していましたが、徐々に中国軍によって戦況は悪化し、さらにソ連から供与された MiG-15 ジェット戦闘機が国連軍の旧式なプロペラ機を圧倒、12月 5 日には中朝軍が平壌を奪回、そのまま南下を続けてふたたびソウルを制圧し、1951 年 2 月には忠清道まで押して来ました。しかしこのあたりで人数で押して来た中朝軍もさすがに消耗が激しく、押し切るには至らず、3 月に入ると態勢は再逆転、国連軍はソウルを奪回し、38 度線付近で前線が動かなくなりました。
マッカーサーは中国東北部を爆撃(一説では原爆の使用も検討された、といいます)するプランを提示しましたが、その強硬姿勢が対ソ連政策として「危険」過ぎる、ということで Harry S. Truman 大統領はマッカーサーを解任してしまいます。
結局その境界線(実際の北緯 38 度とは厳密には違うそうですが、その名称がそのまま使われたようです)のまま 1953 月 7 月27日、板門店で休戦協定が結ばれて、およそ 400 万の犠牲者が出たといわれる「朝鮮戦争」は終結しました。

ブルースの世界で、この戦争が与えた影響が窺える曲としては、2004 年 7 月27日(つまり板門店での協定からちょうど 1/2 世紀の日だった)に採り上げた Jimmy Rogers の World's in a Tangle、さらに 2003 年 9 月10日に採り上げた Percy Mayfield の Please Send Me Someone to Love が挙げられますが、おヒマでしたらそちらもどうぞ。

戦争体験と言えば、あの Screamin' Jay Hawkins もなんかぬかしておりましたねえ。

サイパンにパラシュートで降下したらちょうど日本軍のド真ん中だったんでスグ捕虜になり、18 ヶ月も救出を待ったよ。
その間、日本軍の将校の拷問にあって、俺のカラダはチェス盤なみに線が走ってるぜ⋯

まあ、よくもぬけぬけと。ヤツは戦闘員じゃなく、音楽で慰問して歩く「スペシャル・サービス」に属してたハズですぜ。
ま、ホラまで「さすが Screamin' Jay Hawkins!」って感じですが。

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