2005-01-28 FRI.


ところで、いつからか、は厳密に書かれておりませんが、
http://www.slidingdelta.com/bluesmen/elmorejames.html によると Elmore James の使用していたのは Kay のフラット・トップにサウンド・ホールと言う、いわゆるウェスタン系のギターにマグネチック・ピックアップを取り付けたもので、どうも自分で配線したものらしいですね。

Culver City での録音は 1954 年の 8 月、あるいは 9 月と言われておりますが、たぶんそのあたりに Boing B-52 Stratofortress(成層圏の要塞!)爆撃機が初飛行をしていたハズです。
これは B-47 をさらに巨大にして、積載能力、航続性能をアップさせたもので、この機の出現によって、「常時」 50 メガトン(広島に投下された原爆は 0.015、つまり 15キロトン= 1/3,333!)もの核弾頭を抱えたアメリカ戦略空軍機が「有事」の際にはほぼ二時間以内に「某」敵国の重要施設を破壊出来るように高度 15,000m ほどの空中でローテーションを組みながら待機する、という、まさに冷戦時の極端な「象徴」となり、ゆえに映画「博士の異常な愛情─または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」では、主役級(?)の扱いを受けることとなったのでございました。
また(これ以外にも可変後退角主翼をもった F-111A なども使用されてはいますが)「北爆」時に大量のナパーム弾や通常爆弾を降らせた(かっての日本にとっての B-29 に匹敵する)悪魔であり、なんと 50 年後の現在でも「現役(もちろん改良されつつ更新されてはおりますが)」で使用されています。

その直後の 10月18日には、みなさまにもお馴染みの名前と思われます Texas Instruments が世界初のトランジスター・ラジオを発表しました。
10月31日にはフランスの海外県であったアルジェリアで組織された FLN( Front de Liberation Nationale アルジェリア民族開放戦線)が独立を目指して武装闘争に入っています。

あ、あと日時とかは判りませんでしたが、アメリカのボーイ・スカウトが人種による分離を廃止したのもこの 1954 年だったハズ。

翌 1955 年は映画 Back to the Future で父母の青春時代としてブッ飛んできた先の時代でございます。
1 月14日には Alan Freed による最初の「ロックンロール」コンサートが New York で開かれました。
2 月23日には東南アジア条約機構(オーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、タイ、そしてアメリカの各国で形勢された、西の NATO: 北大西洋条約機構と同じく、共産主義勢力の拡大を阻止し、参加各国の多方面での協力を謳った、基本的には軍事協力のための機構)の準備会議がスタート。
その NATO には 5 月 9 日、西ドイツが加盟しています。

この年のルマン 24 時間( 24 Heures du Mans )ではメルセデス・ベンツ 300SLR をドライヴする Pierre Levegh(ピエール・ルーヴェ)が、ピットインしようとする(当時としては制動力が強大だったディスク・ブレーキを装備していた) Mike Hawthorn の Jaguar D type に前を塞がれた一台の Austin-Healey(こちらはドラム・ブレーキだった)が D type への追突を避けようと左に回避したところに高速で突っ込み、その Austin-Healey を踏み台にして左斜め上にコースを飛び出し、コース設備に激突した 300SLR は分解炎上したまま観客で埋まったグランド・スタンドを直撃。運転していた Pierre Levegh はもとより、観客 81 人が死亡する、という大惨事が発生しました。レースはそのまま続行されましたが、終了前にメルセデス・ベンツはレースを放棄して撤退しています。
この件に関しては、
http://www.k3.dion.ne.jp/~micha/book_deathracelemans1955.htm などをご参照下さい。

7 月 9 日には Bill Haley & the Comets の Rock Around the Clock がロックンロールとして初めてチャート 1 位に到達し、同じく 17日には California 州 Anaheim に Disneyland がオープン(!)しました。

カンジンの Elmore James ですが、8 月になると、今度は New Orleans の Cosimo Matassa の J&M スタジオで録音が行われました。
バック・ミュージシャンはここでの数々の録音に関わったピアノの Edward Frank、ベースの Frank Fields、ドラムの Earl Palmer が揃っています。プロデュースはもちろん Joe Bihari。
Dust My Blues -take 3: Flair 1074: Kent 331: Kent 394: Crown LP 5168: United US 716 & 718: etc.
Blues Before Sunrise : Flair 1079: Crown LP 5168: United US 716: etc.
I Was a Fool : Flair 1074: Crown LP 5168: United US 716: etc.
Goodbye ( Baby ) : Flair 1079: Kent 465: Crown LP 5168: United US 716: etc.
と 2 枚のシングルになっていますが、ここで気付くのは Dust My Broom じゃなく、Dust My Blues だってこと。この改題の責任者が誰なのかは不明ですが、ま、なんにしてもあまりヒョーバンは良くないですねえ。

ところでこの 1955 年 8 月の28日には、ある事件が起きています。
Chicago から夏の間、Mississippi 州の州都 Jackson と Memphis の中間あたりにある街、Money(これ、地名です!)の大叔父 Moses Wright のもとに来ていた 14 才の少年 Emmett Louis "Bobo" Till が、同地で知り合った小作農の子供たちと一緒に、白人の Roy Bryant が妻の Carolyn Bryant とともに経営していた地元のマーケットに行った際に、注意を惹くために Carolyn に対して口笛を吹きました。これが 8 月24日のことでしたが、夫の Roy は異母(父?)兄弟の J. W. Milam とともに 8 月28日早朝の 2:30 頃、大叔父 Moses の自宅から Emmett を誘拐し、さんざん殴打した後に 45 口径のピストルで殺害した上で重しをつけて Tallahatchie 川に沈めてしまいました。
翌日には少年の失踪に関する嫌疑で Roy Bryant は拘束されたのですが、三日後の 8 月31日には遺体が発見されています。
Emmett の母は遺体を Chicago に持ち帰りましたが、葬儀業者からの、遺体を「見苦しくなく」整えましょうか?という申し出を断り、Emmett がどんな目に遭わされたのかをみんなに見てもらいたいのだ、と敢えて遺体の写真を新聞社のカメラマンに撮影してもらい、これがセンセーションを巻き起こしました。
この報道もあって、Emmett の遺体を直接見に来たのは 50,000 人にも達した、と言われています。
Emmett Louis "Bobo" Till は 1955 年 9 月 6 日、Illinois 州 Alsip の Burr Oak Cemetery に埋葬されました。

ところで Roy Bryant と J. W. Milam は、ってえと、決まってるじゃない。「全部白人で構成される陪審」はたった 67 分で戻り、嫌疑不十分で無罪放免を告げたのでした。
犯人の二人(後に雑誌のインタビューで告白した、と言われている)も、Emmett の母も死んでしまった 2004 年になってアメリカ司法省は NAACP の要請に応え、再調査を開始する、と発表しています。
時効はすでに成立しているものの、真相が「もしかすると」ようやく国家によっても認定されることになるかもしれません。

50年も経って、ねえ・・・

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