2005-01-29 SAT.


Cosimo Matassa のスタジオで録音した 1955 年ですが、その 9 月14日には西ドイツの Konrad Adenauer がモスクワを訪れ、いまだにソヴィエト国内に残っていた第二次世界大戦時のドイツ人捕虜の処遇について協議をしています。これによって最後の捕虜が 10月 7 日、ソヴィエトから開放されました。

12月 1 日には、2004 年の Sly and the Family Stone で詳しく書いた Rosa Parks 事件が起きています。これに始まる一連の公民権運動の流れについては Sly の方を参照してください。

明けて 1956 年の 1 月 4 日、Chicago の Universal Studios で Elmore James のレコーディングが行われました。
Raymond Hill ともうひとり氏名不詳のサックス、Eddie Taylor のギター、Johnny Jones のピアノ、そして氏名不詳のベースと Odie Payne Jr. のドラムで、これもプロデュースは Joe Bihari。

So Mean to Me-take 2 : Ace CH 68
So Mean to Me-take 3 : Kent LP 9001: Kent KST 538: United US 777 & 778
So Mean to Me-take 4 : Ace CH 192
Wild about You Baby : 会話、中断
Wild about You : Modern 983: Ace CH 68
Wild about You( Baby) : Kent LP 5022: Kent LP 9001: Kent KST 538: Ace CH 31
Elmo's Shuffle-take 3 : Kent LP 9010
Elmo's Shuffle-take 4 : Ace CH 68
Elmo's Shuffle-take 5 : Ace ABOXCD 4
Long Tall Woman : Kent LP 9001: Kent KST 538: United US 778 & 7778: Ace CH 192
Long Tall Woman : Modern 983: Ace CH 68

を録音しています。
そしてこれが Bihari Brothers との最後の仕事となったのでした。

さて、その直後の 1 月16日、エジプトのナセル( Gamal Abdal Nasser )大統領は「パレスチナの地を奪回する」と誓約。それからおよそ半年後の 7 月26日にスエズ運河を国有化しています。

Suez Canal : もともとはアフリカ大陸がシナイ半島を経てアジア、そしてヨーロッパへとつながる狭小なスエズ地峡は、北が地中海、南からは紅海が深く喰い込んで来ている独特の地形でしたが、 19 世紀の半ばに、その部分を掘削して両方の海をつなげる運河を作る計画が持ち上がりました。
フランスの肝いりで Compagnie universelle du canal maritime de Suez が設立され、その Ferdinand de Lesseps の指揮で工事が開始されました。
基本設計はオーストリアの技師 Alois Negrelli によるもので、途中 125,000 人とも言われる多大な犠牲者(多くはコレラによる病死だった、と言われていますが⋯)を出しながら 1859 年 4 月25日の着工から 10 年を費やし、最初の通船は 1867 年 2 月17日に、すべての工事が完成した記念式典は 1869 年の11月17日に行われています。

開通後、その運営はエジプト政府とフランスが行いましたが、その建設に必要であった莫大な債務に耐えきれなくなったエジプト政府は、その所有権をイギリスに譲渡してしまいます。
それによって「運河を守るため」という名目で運河の両岸にイギリス軍が駐留しました。
そこからイギリスによる「実質上の」スエズ運河支配が始まったのです。

ところで、エジプトでは近代化のためのエネルギー政策の必要上から、大規模なダム建設の必要性があったのですが、あてにしていたアメリカからの援助などが得られないことが判明し、そこで運河の通行料収入をそれにあてようと国有化したものでしたが、当然、欧米各国からは非難が集中し、エジプトの海外資産凍結、各方面でのエジプトへの援助の停止などの報復処置が取られ、さらに 10 月にはイスラエルがエジプトに進攻し、これが第二次中東戦争となりました。
さらにイギリスとフランスもエジプトを攻撃していますが(この三国間には秘密の協約があった、とも言われています)、その後、国連においてエジプトの運河所有が「正当である」とされ、同年11月には国連による停戦命令を受け入れ、イスラエル、イギリス、フランスは撤収し、第二次中東戦争、別名スエズ戦争(あるいはスエズ動乱)は終息しています。
ところで、結局アスワン・ハイ・ダムは、ってえとソ連の援助などで完成にこぎつけたようですね。

そのスエズ動乱のさなかの 10月23日、こんどは東ヨーロッパと言って良いハンガリーで、ソヴィエトの支配に対する市民の反乱が勃発。
まずブダペストで学生によるデモが発生し、これに周辺の労働者や市民が次々と参加し、およそ 100,000 人に達する規模となった、と言われています。
本来ならば、これを制圧するハズのハンガリー軍の兵士は逆に制帽に付いていたソヴィエトを表す星を引き千切り、群衆の中にそれを投じる者が続出しました。
群衆の要求は初期においてはさほど過激なものではなく、穏当なものでしたが、これにハンガリーの秘密警察 AVO が介入して群衆に向かって「発砲」し、数百人の死者を出したことでデモ隊も激昂し、警察車両を転覆させて放火するなど、暴力化の一途を辿り、さらには武器までが出回るようになり、事態は一層危険な様相を呈して来ます。
ハンガリー共産党はここで大衆の支持が厚い Imre Nagy を総理大臣に選任し、大衆を軟化させて休戦に持ち込む方策を取りました。
しかし、このことによって Imre Nagy を「裏切り者」呼ばわりする層も出現し、やむなく強硬派だった Erno Gero 党書記と元首相の Andras Hegedeus は駐留ソヴィエト軍に治安出動を要請することとなります。
ブダペストでは市民とソヴィエト軍の間で激しい戦闘が勃発していましたが、同じ国内でも地方では平穏な地区も多かったそうで、むしろ秘密警察が介入したことでブダペストだけが「燃え上がって」しまった、と言えるのかもしれません。
数千人とも言われる犠牲を出しながらも、幾度かの休戦を挟んで、「戦闘」そのものは沈静化しつつありましたが、ここで民衆は Imre Nagy に対し、ワルシャワ条約機構そのものからの「離脱」を要求します。これに対し、またもやソヴィエト軍がそれを阻止するために 11月 4 日から軍事介入を開始しました。
ハンガリーの労働者評議会が対ソ連軍の前面に立ち、激しく抵抗。やがて彼らは政府を介さずに直接ソヴィエト軍司令部と交渉を開始し、一部の政治犯の釈放には成功したものの、政治体制を改変させることは出来ず、結果として親ソヴィエトの Janos Kadar が新しい共産主義政府を作ることになるのですが、その政権下では Imre Nagy を始めとする多くの政治家、活動家が次々と処刑され、アメリカの中央情報局の推計を信じれば、その数はおよそ 1,200 人にものぼる、と。

この戦闘と、その後の混乱、あるいは粛正などから国外に逃亡・脱出した人々は、実に 25 万人に達した、と言われています。
(注;他の例と異なり、ハンガリーでは姓名の表記が日本と同じく、前が名字、後が名前となります)

このハンガリー動乱は 1989 年の東西ドイツを隔てていた壁の崩壊につながる「東欧開放の嚆矢」であるかのように見える部分もあるのですが、その実態の評価はいまだに定まってはいないようです。
アメリカではこれを、自由で民主的な社会への希求が惹き起こした、と(バカのひとつ覚えやね)捉えたがっていますが、ヨーロッパではむしろ民主的な「社会主義」への移行を目指していたのではないか?という評価がメインだし、ソヴィエトに言わせれば、(ハンガリー軍が民衆を制圧「しようとも」しなかったことから)軍事独裁政治を目指したファシストによるクーデターと封建的な社会に戻そうとした聖職者たちの野合であり「したがって悪は滅びた」と⋯

ま、ワタクシなんぞがエラそーに分析なぞ出来るもんでもありませんが、アタマに血が昇った AVO があそこで発砲なんぞしてなきゃ、だいぶ様相は違ってたんじゃないかなあ、なんて考えちゃうんですが、どんなもんでしょ?

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