2005-01-30 SUN.


ハンガリー動乱とスエズ動乱で終わった 1956 年でしたが、日本が国連に加盟を認められたのが同じこの年の 12月12日でした。

明けて 1957 年はフリスビーの誕生した年なんだそうで、そんな昔からあったの?とビックリでございます。それが 1 月13日、Wham-O Company ってとこの製品だそうで。
2 月 4 日にはフランスが、国連のアルジェリア問題への介入を阻んでいます。
3 月 8 日にはようやくスエズ運河再開。
3 月20日、フランスの新聞 L'Express がアルジェリア*でのフランス陸軍による虜囚の拷問を暴露しました。

*─めっちゃ長いけど、アラビア語の発音をカタカナ表記すると「アル=ジュムフーリーヤ・アル=ジャザーイリーヤ・アッ=ディームクラーティーヤ・アッ=シャ~アビーヤ」ってのが国名だそうです。
1830 年、オスマン帝国下にあったアルジェリアは、その首都アルジェを占領され、1871 年には占領が全アルジェリアに拡大しました。
その後、長い間、フランスの海外県としてフランスの植民地の地位に甘んじていましたが、そこにはヨーロッパ系の入植者 Colon(本国からは搾取される立場だった、としている資料もありますが)と、ベルベル人やアラブ系などのイスラームの信仰を持つ民族が共存していました。
コロンは彼らと本国との間に入って収奪し、アルジェリアが産み出す「富」の大半を占有しながら徴税はその 30% を課せられていたに過ぎません。
そのようにして先住民との間に圧倒的な経済的格差を作ったこと、それに加えて、多くのムスリムにとっては自分たちの信じるイスラームに比べ、あくまでも前駆的な未完成な宗教(!)を信じている欧米人に指図されることに対する反発など、そして第二次世界大戦後の「民族自決」の流れなどの相乗効果で、宗主国フランスと、その手先(?)である Colon に対する反感が強まって結成されたのが、少し前でちょっと触れた FLN( Front de Liberation Nationale )アルジェリア民族解放戦線でした。そして目指すところは一緒でも、その活動方針ではかなりの開きがある( MNA: Mouvement national algérien )はフランス国内のアルジェリア出身者にはよく浸透しており、フランスでは MNA がやや FLN よりも優勢だったようです。

1954 年11月 1 日の朝、FLN ゲリラがアルジェリア国内の陸軍基地を始めとする各種の公共施設に対して攻撃を開始しました。
コロンはフランスからの入植者の財産を守るためと称してイスラームのコミュニティで強引な FLN 狩りを開始し、当然ながら、多くの独立論者もその犠牲となり、それがまた「反フランス」の勢いを強めて行くこととなりました。
FLN はカイロからの放送で、同胞に対して闘争に参加することを呼びかけ、それに対し時のフランス内務相 François Maurice Adrien Marie Mitterrand は軍事的に収拾すると発言。これは直前にインドシナでの手痛い「喪失」を味わったフランスにしてみれば、さらなる植民地の消滅は「なんとしてでも」阻止したい、と言う意向が強硬姿勢の背後にあったようです。
ただしフランス国内でも、文化人などをはじめとして、この独立闘争を支持する意見も多く、さらに国際世論の注視などの中にあってフランス政府は実際には派手な掃討作戦などが行えずにいたため、その「弱腰」に反発したアルジェリア駐留軍やコロンたちのフランス政府に対する(事態を収拾するためにフランスから送り込まれた知事の Jacques Soustelle に対し圧力をかけ、妨害も行った)反乱も発生し、収拾能力の限界を露呈したフランス第四共和制は崩壊してしまいます。
このアルジェリア解放に最後まで反対した植民地主義者や現地のフランス軍、さらにコロンたちで結成された OAS(秘密軍事組織)は後にテロなどの非合法活動に走り、それがフレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」を生んだ、というのは有名なハナシ。


さて、アルジェリアはひとまず置いといて、この 1957 年というのは「核査察」で最近はみなさまの記憶にも比較的新しいのではないか、と思われる IAEA が 7 月29日に設立されております。

というところで Elmore の録音を挟ませていただきますが、じつはそれが 1957 年のいつごろだったのか?は判らないのでございますよ。
仕方無いのでここらに入れときますが、「夏」だった、というショーコはどこにもございません。
ただ、月日以外のデータは残っておりまして、 J. T. Brown のサックス、Wayne Benett と Eddie Taylor のギター、Johnny Jones のピアノと Homesick James のベース・ギター(と表記されてますねえ)に氏名不詳のドラマーという構成で Mel London の Chief Records に録音しているのですが、資料によってはこのとき、Wayne Benett と Eddie Taylor 、それにベースパターンを弾いてた Homesick James までが「同じひとつのアンプに挿してた」なんて書いてるのがありましたが、どこまでホントか、は「?」でございます。
このセッションでは Tampa Red の 1949 年の名曲 When Things Go Wrong with You が採り上げられ、他にも Mel London の手になる The Twelve Year Old Boy も収録されました。

The Twelve Year Old Boy : Chief 7001: VeeJay 249: Cobblestone 9001: Muse MR 5087 etc.
Coming Home : Chief 7001: VeeJay 249: Cobblestone 9001: VeeJay VJS-2-1007 etc.
It Hurts Me Too : Chief 7004: VeeJay 259: Cobblestone 9001 etc.
Elmore's Contribution to Jazz : Chief 7004: VeeJay 259: Cobblestone 9001 etc.

この二枚のシングルに続き、もう一枚 Chief 7006となるシングルの二曲が録音されていますが、こちらは Homesick James の参加が確認されていないようで、ドラム・ベースともに氏名不詳となっています。

Cry for Me Baby : Chief 7006: VeeJay 269: Cobblestone 9001 etc.
Take Me Where You Go : Chief 7006: VeeJay 269: Cobblestone 9001 etc.


で、もひとつ、これはまた Homesick James がベース・ギターとなったトラックで

Knocking at Your Door : Chief 7020: Cobblestone 9001 etc.

も録音されました。え? Chief 7020って他に無いじゃん、裏は?ってえと、これがあなた、じつは Earl Hooker の Calling All Blues となって 1960 年にはちゃ~んとリリースされておるのでございますよ。
ま、ついで、と申してはナンでございますが、次の Chief 7021 こそ「あの」Earl Hooker が参加した Junior Wells の Messing with the Kid なのよねー。その 10 番あとの Chief 7031 が Earl Hooker の Rockin' with the Kidっちゅーカンケーね。

1957 年っていうと 9 月には Arkansas 州 Little Rock での人種差別事件、州知事による黒人生徒の登校阻止、いわゆる Little Rock Nine が発生しています。それも詳しくはリンク先の Sly and the Family Stone のとこを参照してくださいませ。

で、アメリカがそんなことしてる間に(?)ソ連が「人類初の」人工衛星スプートニク I を打ち上げて周回軌道に投入することに成功してしまうのが、ちょうどその一ヶ月後の 1957 年10月 4 日のことでした。おまけに 11月の 3 日にはライカと名付けられた犬を乗せたカプセル(生命維持装置によって「何日かは」生きていたハズ、だそうです!)を組み込んだスプートニク II も打ち上げに成功しています。
この件がアメリカの「威信」を実は深~く傷つけてしまったもんですから、以後アメリカは宇宙開発に血道を上げることになるワケですね。

ここんとこ、ヒソカに(ってここで書いちゃったら「ヒソカ」じゃなくなりますけど)バナー作りに凝ってます。
まだ決定的なのが出来てないんで実戦に投入(?)してませんが、やはりここでも、大事なんはテクニカルなことじゃなくて、ケッキョクはデザインのセンスなんですよねー。

楽器でもそうですけど、なにかテクを覚えると、それが出来るんだったらこんなプレイを、ってついなっちゃうんですが、たいした楽想も無いのにテクだけは有る、なんてギタリストやらがワザ好きな日本じゃウケてますけど、それ、本末顛倒でございましょ。
「やりたいこと」が「出来ること」を上回っているのがいいんであって、中身の無い馬鹿テクなんて、かえってみっともないと思うんですけどねえ。

てなことを言い出したってのは、私の場合、自分のホームページを、出先の PCで、あるいはネット・カフェからでも更新・管理が出来るように、ホームページ作成ソフトなんぞに依存せず、すべて HTMLタグで構成しています。
だから、こんなデザインにしたい、って欲求が生まれるたびに、どーやったらそれが出来るか、どんなタグが使えるか?を常にベンキョーして物にして来たからなのです。
いつも「やりたいこと」が先にあって、それをどうしたら「出来るか?」が追いかけるようにしたい、って思っています。

ま、テクノロジーが拓く新たな表現!なんてのもタマにはいいかな?なんてスグ日和るとこがなんなんですけどね。

さて昨日は北東に 45kmほど離れた青森市まで行って、「油そば」(汁の無いラーメンみたいなもん)を食べてきました。

そのお店は働いている方がみな女性で、中で「釜前」と言うんでしょか?麺の茹でと、ドンブリにタレとダシを合わせて味を決めるのまで一人で取り仕切っているシャープな感じのキリっとした女のひとがいて、鋭いまなざしで麺の状態を見つめ、その一途(?)な姿勢にいつも感服していたのです。
最初はちょっとコワそう?なんて思ったのですが、前回行ったときに、他の店員さんが忙しいようだったので、カウンターの中の彼女に直接オーダーしたら、思いがけず「花が開いたかのような」明るい笑顔で応えてくれました。
ほんとーに「笑顔」っていいですね。


↑ それから少し経ってた昨日、お店に入っていったら、あの時と同じ笑顔で迎えてくれました。どうやらこちらの顔も覚えてくれてたみたいです。
東京みたいに凄い数のお客さんがとっかえひっかえ来るよなとこじゃ、なかなかお客さんの顔も覚えてくれない(あ、毎日通う、なんてやったらちゃうでしょが)ですよね。
その点、ここらじゃ(ま、私が「覚えやすい顔」してるせいもあって?)すぐ覚えてくれます。
五所川原から北に行った中里のガソリンスタンドじゃ、二度目に行ったら「毎度」なんて言われたことありますよ。
こっちが「えっ?」でしたけどね。
これだから悪いことは出来ません⋯ って、しませんけどね(ホントか?)

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