2005-01-31 MON.


1958 年ってえと、「東京通信工業」が社名を「 SONY 」としたのが、この年の 1 月 1 日なのね。
また、日本が国連の安全保障委員会の非常任理事国に就任してます。
そして EU の「遠い」先祖(?) E.C.C.=欧州経済共同市場もスタート。
1 月 5 日にはホー・チ・ミンがインドを訪問し(ついでながら 1 月 7 日にはインドネシアのスカルノもインドに来ています)、翌日にはソ連が兵力 30 万を削減する、と発表しました。
この時期のソ連は、やや緊張緩和方向へという戦略をとり始めており、ブルガーニンは「東西首脳会談」の開催を提案しています( 1 月 9 日。アメリカは 12日に条件付きながらも同意しています。さらに 1 月17日にはアメリカとソヴィエトの間で「文化交換協定」が調印されました。さらに推進した「文化交流協定」は 1 月27日)。

ソ連が「人類初の」人工衛星スプートニク I を打ち上げて周回軌道に投入することに成功したのが、前年の10月 4 日で、急いで後を追いたいアメリカでしたが、なんと「追う」どころか 11月の 3 日には犬を乗せたスプートニク II までも打ち上げられてちょっと差をつけられておりましたよね。
そのスプートニク I が軌道を外れて落っこちて来た 1958 年 1 月 4 日から 3 週間以上もあと、1 月 31 日になってようやくアメリカの人工衛星 Explorer I が打ち上げに成功したのでした。

その翌日にはエジプトとシリアが United Arab Republic ─アラブ連合共和国を結成しています。この連合は 1961 年にシリアでクーデターが発生したために解消されてしまいますが、この発想はその後のアラブ共和国連邦へ、と発展して行くことになります。

ところで 2 月11日には Ruth Carol Taylor という女性が黒人としては初めて航空会社のフライト・アテンダントとして採用されました。
続いて 2 月14日には、パーレヴィ国王による「王制」下にあったイランで、ロックンロールが禁止されています。イランの医学関係者によると、それに伴う踊りは骨盤にとって「危険である」と。

⋯おいおい、Elmore James はどーしちゃったんだ!というお叱りの声が聞こえてきそうですが、実はこの 1958 年には彼の録音は無く、いろんな資料に当たってみても、唯一その年に触れているのが、『せっかくの( 1957 年の)録音も、商業的には成功には結びつかなかったことが判明した 1958 年、彼はいったん南部に帰った』って記載だけのようで、ただ、これに関しては、それ以前からあまり調子の良くなかった心臓の具合を気遣って、彼は Mississippi 州 Jackson にいったん引っ込み、そこでタマに演奏したり、ラジオの修理の仕事をしたりしていた、としている資料もありますから、どっちみち、この年の彼は「お休みしてた」ってことになるのかもしれません。

さて 2 月14日にはイラクとヨルダンがアラブ連邦を結成しました。で、その日、中華人民共和国の代表団が平壌を訪問しています。
それに関連して 2 月19日にはアメリカが国連軍を朝鮮半島から撤退はさせない、と表明。
そのアメリカの喉元、キューバでは、フィデル・カストロの革命軍がバティスタ政権に対し、全面的な戦闘を開始しています。

3 月25日、西ドイツ連邦議会は、軍の核武装を決定しました。
3 月27日、ソ連の首相、ブルガーニンが辞任したことにより、フルシチョフ(共産党第一書記)が首相も兼任することになり、その直後の 3 月31日、ソ連は核実験を中止する、と発表。
4 月22日にはアラブ連合のナセルがモスクワを訪問し、かと思うとユーゴスラヴィアのチトー大統領は逆にソ連との距離を強調するステートメントを党大会で発表しました。

一方アルジェリア情勢は、ってえと 4 月29日にモロッコで地中海沿岸諸国からアルジェリア、チュニジア、モロッコの独立推進派の政党関係者、政治家が集まり、独立のための共同行動を確認しています。

フランス本国では 5 月16日、アルジェリアに「緊急事態宣言」を発令しました。そして首相にド・ゴールを選任し、彼はさっそく現地入りしています。
一方のチュニジアでは 6 月17日、フランス軍の撤退協定が成立してるんですが、やはりアルジェリアはコロンと現地軍が政府に反抗しているために、そのような解決策は難しかったのでしょうね。

そしてこの後、こんどは中東に政変があり、事態が動き始めます。
1958 年 7 月14日、ファイサル国王が殺害され、イラク革命が成立しました。これに呼応する各地の「反欧米的」暴動などに「備える」としてレバノンの首都ベイルートに 5,000 人のアメリカ海兵隊員が送り込まれ、その二日後にはイギリスもレバノンに派兵しています。
これには 8 月 3 日、フルシチョフと、その訪問先、中国の周恩来の共同声明が発せられ、アメリカのレバノン派兵を非難しました。
その海兵隊が撤退したのは 8 月13日のことです。

ところがその中国は、ってえと 8 月23日に金門島などを人民解放軍が砲撃する、といういわゆる「金門島事件」を起こしているんですねえ。
ま、本気で攻略する、っつーより、反応を見て敵の防護能力を試そう、ってえもんだったんでしょが。
これを受けて(?)アメリカは台湾防衛のために軍を出動させるぞ!と中国に警告し、9 月15日には両国がワルシャワで会談しています。なんだかなあ⋯

どうもこのころの世界は、アメリカ&ソ連を両極とした「東西冷戦」が主要タームで、その陰で目立たない「西欧キリスト教社会 vs. ムスリム」という「次の」テンションが次第に張りつめられて行ってた、と言うことが出来るかもしれません。

9 月28日のフランス国民投票では、大統領権限を強化した第五共和国憲法が承認されました。これによって同年末に選任されたのがド・ゴールなのです。

また 10月23日にはアメリカの国務長官ダレス( Allen Dulles )と蒋介石が共同声明で中国本土への武力反攻を否定し 10月26日には北朝鮮にいた中国軍が撤退を完了しました。
他の「東西対立」関係事項としては、11月10日、フルシチョフ共産党書記長がベルリンを非武装自由都市とすることを決定。これはその名称とは違って、ベルリンからアメリカ、イギリス、フランスの西側の駐留軍隊を撤去させて「自由都市」とする、というものでしたが、実際にはそれによってベルリンを孤立化させる(なんせベルリンは第二次世界大戦でのドイツ敗戦によって東西に分割されたドイツの東側統治部分に孤立しており、ソ連側にしてみれば体内の異物みたいなもんでしたから、そこに西側の駐留軍がいるのは「イヤ」だったわけでしょねえ⋯なんて、そんな単純なことじゃないんでしょが)ことを狙ったものでした。
そして、例のアスワン・ハイ・ダムの建設援助協定がソ連とエジプトの間で調印されたのもこの 1958 年12月27日でした。

Elmore James の次の録音は翌 1959 年の11月まで待たねばなりませんが、この 1959 年はキューバのバティスタ政権がついに Fidel Castro の革命軍に追い詰められ、Fulgencio Batista はハバナに脱出しています。
1 月13日にはド・ゴール大統領がアルジェリア独立闘争での政治犯に恩赦を与え、これがコロンや植民地主義者たちをしてド・ゴール排除のテロに向かわせたのかもしれません。結局ド・ゴールは 9 月16日に民族自決を基本とした新政策を発表。
2 月にはソ連がイラクに対し経済および技術の開発協力を決定しました。またキューバではカストロが革命政府を樹立しています。
でも 2 月で一番アメリカを騒がせたのは 3 日に報道された飛行機事故だったでしょうね。
前日に墜落した飛行機に Buddy Holly、Richie Valens が乗っていて、死亡していたことが判明し、ファンたちに大きなショックを与えました。「 The Day the Music Died 」と言われたくらいです。

この 1959 年には、少し前、大虐殺が問題となったルワンダでツチ族の穏健派をメインとしてルワンダ民主連合が結成され( 9 月14日)続いてフツ人民解放党が結成( 10月 9 日)されたのもこの年のことでした。

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