2005-02-03 THU.


4 月に CHESS のセッションを行った Elmore James でしたが、その 4 月 1 日には国連の安全保障理事会が、南アフリカ共和国に対して人種差別廃止要求決議案を採択しています。

同地では、およそ 17 世紀にまで遡る植民地支配の歴史の中で、あからさまに西欧からの入植者を現地のアフリカ人およびインド系住民の「上位」に置き、徹底的に差別することが行われて来ていました。
1913 年にはそれを成文化した「原住民土地法」でアパルトヘイト( Apartheid: 南アフリカ特有のアフリカーンス言語で「分離」を意味する)という概念を導入し、「他民族間にある相違を尊重して、それぞれが独自に発展するべきであり、同じスタンダードをあてはめることは出来ない」という一見もっともらしい「お題目」のもと、白人は黒人を安価な労働力として確保し続けられるようにした実に不公平なものでした。

もちろん、第二次世界大戦後の民族自決ブーム(?)のなか、アフリカ大陸内のかってのヨーロッパ諸国による植民地が、次第に独立を果たしていく状況( 1960 年 1 月 1 日フランスからカメルーン、後には同じくマダガスカルやマリ、イギリスからソマリランド、ベルギーからコンゴ・・・)は、南アフリカで搾取され続けていた黒人たちにも刺激を与え、デモを行って権利の拡張を訴える行動が激化して行きます。そんな中、3 月21日の Sharpeville では丸腰の黒人たちに対して警察が発砲し、デモ隊から 69 人の死者と 180 人もの負傷者を出しました。
これが原因となって各地が争乱状態となり、政府は 3 月30日に「非常事態宣言」を発令しています。
国連の決議はそれを受けてのものでした。

また 4 月10日にはアメリカ議会に黒人の選挙権を拡大する市民権法案が提出されています。この選挙権に関する法案が成立した後も、白人優位主義者たちの、黒人たちが選挙人名簿に登録に行くこと自体を妨害しようとする行動が頻発し、さらに悪いことに地区によっては警察がそれに介入することを「見送った」ケースも多く、せっかくの立法も実効を伴うようになるにはかなりの時間を必要としたのでした。
一方でこの 4 月には韓国の李承晩大統領の退陣を要求する学生デモが起きています。4 月19日にはそのデモが暴動に発展し、警察はその鎮圧のために実弾による射撃を準備し「戒厳令」を発布。4 月25日には大学の教授など各界の知識人、財界などからも李承晩大統領に対する退陣要求が出始めて、27日、ついに辞任に追い込まれました。
李承晩は後にハワイに亡命しています。

5 月11日、アルゼンチンから、亡命して来ていた旧ナチの戦犯、アドルフ・アイヒマン( Adolf Otto Eichmann )がイスラエルの諜報機関モサド 4人によって誘拐され、イスラエルに連行される、という事件が起きました(一説では、これが KCIA による金大中の誘拐のヒントになったのだそうですが、果たしてどうだか⋯)
で、南米つながり、ってワケじゃないんですが 5 月22日、南米のチリが面した太平洋岸の沖合海底を震源とする大地震が起き、チリで大きな被害(死者 5,700 人)を出したばかりか、そこで発生した津波がおよそ 22 時間後の 5 月24日(日付変更線を挟んでいるため)に日本の三陸海岸に到達し、139 人の死者を出し、家屋や港湾設備などに大きな被害を出しています。
その 4 日後、「あの」 Elmore ゆかりの(?)グアム島から 16 年ぶりに「出てきた」元日本兵が帰国。

カンボジアでは 6 月14日、シアヌークが国家元首となりました。
その翌日は日米安全保障条約の改定阻止を訴える大規模デモが国会周辺で行われ、国会に突入したデモ隊と警察側が乱闘状態となり、東京大学に在学中だった樺美智子が死亡。

この 6 月はアフリカでの旧宗主国からの独立ラッシュだったのですが、現在のアフリカの混迷をもって「それ見ろ、彼らには統治能力なんて無いのさ」などとほざく「白人至上主義(あるいは西欧至上主義か?)」は、それの遠因が、かっての自分たちの圧政の結果である、とは夢にも思ってないんでしょうね⋯
まず 6 月30日にベルギーからの独立を果たしたばかりのコンゴ*で 7 月 6 日には残っていたベルギー軍の将校の横暴から民衆の暴動が発生し、これにベルギー政府は兵士を投入することを決定( 7 月 7 日。実際に現地に到着したのは 7 月10日)、そして 7 月11日には親ベルギー派だったチョンベ首相がカタンガ州をコンゴから分離独立させる、と発表し、ここから本来の独立派、そしてチョンベ一派の分離独立派、さらに旧宗主国のベルギーも加えた争乱となり、「コンゴ動乱」と称されるようになりました。三日後の 7 月14日、いちはやく国連は事態を収拾するために、ベルギー軍のコンゴからの撤退、ならびに国連軍を派遣し、停戦の実行と管理を行う決議案を採択しています。
8 月15日には(紛らわしいけど、こっちはベルギー領じゃありません)フランス領コンゴも独立。
旧ベルギー領コンゴの方では 9 月 5 日、カサヴブ大統領がルムンバ首相を解任し、ようやく 9 月13日に国連の調停によって停戦しています。そのルムンバ元首相が争乱にまつわり「逮捕」されたのは12月 1 日のことでした。

* Belgian Congo ─太古にコンゴの地に移って来たバンツー( Bantu 語を共有する「部族」と捉えられることが多いけど、実際にはカメルーン周辺から南アフリカにかけて居住していた 400 ほどの部族の集合であり、お馴染みのコイサンや、ピグミーなども含まれる。特定の部族というよりは「文化圏」を表したもの。その中心が Great Zimbabwe であった、としている資料が多い)の暮らす土地であったコンゴに白人が入ってきたのは(歴史上では) 1867 年の Henry Morton Stanley(ウェールズ生まれのジャーナリストにして冒険家。アメリカに渡って市民戦争に参加し、その後ジャーナリズムに身を置く。後に爵位を授けられる。)によるリヴィングストン探査によってでした。
コンゴ川流域はヨーロッパにとって最後の「未踏の地」だったのですが、Stanley はこれまであまたの探検家が挫折していたコンゴ川からその上流のルアラバ川というルートではなく、陸路から入ることに成功(ただし帰りは川下りしてったみたいですが)しています。
その Stanley がヨーロッパに戻ったのが 1878 年のことで、それまで消息が不明で「探検界(?)」の話題となっていたスコットランド人の探検家 David Livingstone(たしか医学も修してたハズで、ために Dr. Livingstone とも呼ばれていたようです。彼はルアラバがナイルにつながるのではないか?と探索してたとか)をミゴトに発見したばかりか、ふたつの川が独立した水系であることも立証しました。
これに注目したのが時のベルギー国王 Leopold II 世で、ベルギー政府が植民地化を躊躇している間に彼自身が直轄統治することを決意し、国際地理学会がブリュッセルで開かれたおりに地図製作や、アフリカに医学の恩恵をもたらすなどの名目で進出する可能性を探り、自らの自由になる Association Internationale du Congo を設立し、ついにはコンゴを直轄統治領としたものです。ここでは Stanley も関わってくるのですが、そこも追い始めると戻ってこれなくなりそなんでヤメときます。
ただし国王直轄の「コンゴ自由州」も 1908 年にはベルギー政府の介入によって終り、それから 1960 年までの長い期間、ベルギー領コンゴ、として存続しました。
その間、主にカソリック(一部ではプロテスタントも)系のミッション・スクールによる宗教と一体となった教育が推進され、教育水準は低くはなかった、とされています。
この後、第一共和制( 1960-1965 )、第二共和制( 1965-1996 )と進むのですが 1996 年からは大きな激動を迎えることとなります・・・

しかしまあ、アフリカってのはホントに「読み」切れない「暗黒のゾーン」なんですよねー。
特に近年の貴金属、希土類などを巡る利権が絡んだ「反政府ゲリラ」による「内戦」の多発は、かっての部族間対立や民族の自立などを主要タームとした「闘争」とは、明らかに位相が異なっており、どちらに正義があるか、なんて切り口では包丁の刃が欠けるの間違い無しです。

まったく、Jimmy Rogers じゃないけど World's in a Tangle ってヤツですね。

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