2005-02-07 MON.


昨日は 1961 年夏と言われる New Orleans 録音を採り上げましたが P-Vine PCD 2889/90/91 に付属する Discography では 1962 年( 1960 年かも、とありますが)にも New York で二曲録音、となっていますが、こちら、バッキングはすべて不明でして、しかも手元にある Red Robin をはじめとする Fire、Fury、Enjoy などの Bobby Robinson のレーベルのシングル盤を網羅した(と思われる) Discography を浚ってみてもこの二曲はやはり浮上して来ません。
ただ、他の資料では曲名が違いますが 1960 年の New York 録音で、Find My Kind of Woman を別テイクこみで二つ併記しているものがあり、これが PCD の Discography では 1960 年の My Kind of Woman と、おそらく 1962 年とされる別な New York 録音での Find My Kinda Woman とに識別されているようです。ついでながら、この 1962/New York では、もう一曲、My Baby's Gone も録音されているようです。

この 1962 年は Washington の National Gallery of Art でアメリカで初めてレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が公開されています。
ん?モナリザと言えば Little Milton の Grits Ain't Groceries ?ん~、残念ながら、それ、Little Milton のオリジナルちゃいまんねん。
作ったのは Titus Turner だし、おまけにそれを採り上げてヒットさせたのは Little Willie John ってひとで、しかもそれ 1955 年のことですから、このアメリカ初公開とは関係ありません。ま、この曲はあの Wet Willie もやってるんで特に覚えがよろしいのではございますが。
え?じゃあ Nat King Cole は?でへへ、そっちは 1950 年ですからもっとちゃいますねえ。

ま、なんてことはともかく、この 1962 年 1 月22日には OAS ( Organization of American States;米州機構。フォーサイスの小説「ジャッカルの日」の元になった 1961 年にアルジェリアのコロンやフランス空挺部隊、外人傭兵などを核として設立され、アルジェリアの独立を容認する Charles de Gaulle をつけ狙った秘密組織 OAS; Organisation de l'armée secrète とはとーぜん「別のもの」)が発足していますが、これはまあ、あからさまに言えば、中南米の共産化を防ぐ、と。いえいえ、それどころか、共産化を防げるのなら、どんなスットコドッコイによる独裁政治だってアメリカがサポートするぜ、みたいなスタンスで両大陸を「アメリカが」管理することを目指したもので、ここでの「アメリカナイズ」をその後世界にまで拡大して「ぐろーばらいぜーしょん」なんてことを言いだすワケでしょねえ。
そんなワケですから OAS 総会ではさっそくキューバの除名を決定しております。

2 月に入ると、ド・ゴールがアルジェリアの独立を認可( 2/5 )し、8 日には南ヴェトナムにアメリカの軍事援助司令部が開設され、翌日にはサイゴンのアメリカ軍事援助顧問団がその援助軍司令部となりました。
そのまた翌日には例の U-2 機のパイロットで、撃墜事件以来ソ連で投獄されていた Francis Gary Powers が、アメリカによって捕えられていたソヴィエトのスパイ Rudolf Abel との交換で引き渡されています。
3 月 8 日にはジュネーヴでアルジェリア独立派側の FLN とフランス政府との交渉が開始されました。そしてその 10 日後、Evian において協定に調印し、ここで「アルジェリア戦争」は公式には終結いたします。
しかし OAS(こっちは暗殺者集団のほーね)はその翌日も、アルジェリアでのテロ行為を継続しておりました。
そのようにして FLN を刺激し、「交戦状態」に持ち込むことが出来れば Evian 協定は無効化し、独立を「ちゃら」に出来る、という見込みから、この 3 月だけでも実に 100 回を超える爆弾によるテロを仕掛けています。
後に首謀者と言われる Raoul Salan が捕えられ、さらに主要なメンバーも次々と逮捕されたために 6 月の17日にはついに FLN との休戦に同意し、1963 年には実質的に「消滅」してしまいました(「ジャッカルの日」でも描かれておりましたが、残党はフランス本国に潜伏し、「裏切り者」ド・ゴールの抹殺を謀った、ってのは確かに「あり得る」話ではございます)。
3 月15日にはノーベル物理学者 Arthur Holly Compton が死亡。ハッブルの言う赤方変移をドップラー現象によるものではなく、このコンプトン散乱によるもの、として「拡大して行く宇宙」を否定する「反ビッグ・バン」論者(ハンネス・アルフベンの「プラズマ宇宙」、フレッド・ホイルの「定常的宇宙論」)などに採用されるなど、根源的な宇宙論の分野でその存在は重要なものでした。
7 月 1 日にはコンゴの東側に隣接した小さな国ルワンダ( Rwanda*)が独立しました。

*Rwanda ─本来はピグミーと言われた種族が主に居住していたようですが、次第にフツ族( Hutus )とツチ族( Tutsis )が大勢を占めるようになってきた地域です。
1895 年にはドイツの植民地となりました。
しかし W.W.I 以降、ドイツに代わってベルギーが植民地化したルアンダ=ウルンディとなり、植民地政府はフツ族よりもツチ族を登用し、この期間にフツとツチの間には生活水準にしても社会的な地位でも大きな差が生まれました。
この白人による植民地支配体制がなぜツチ族を重用したか、というと、そこには例によって(ナチの思想にまでつながるような)「誤った」人類科学が背景にあり、遊牧を主としていたツチ族は、エジプト由来の「黒いアーリア人」で「高貴な血を受け継いでいる」としてしまったからで、実際には貧弱な農地に依存して、農業でようやく暮らしていたフツ族の中でも、なにかの機会で牛を手に入れて遊牧に入ったものは「アイツはツチ族になった」と言われていたそうですから、そんなのはまったくのナンセンスだったのですが・・・
こうしてドイツ統治下のルワンダではツチ族がはばを利かせていたのですが、これが最初の悲劇の下敷きとなります。
ルワンダが独立することによって外国の支援を受けることに成功したフツ族はこれまでの恨みをはらすかのようにツチ族を虐待し始めました。ところが、まったく同じこの 1962 年 7 月 1 日に、独立を果たしたブルンディ( Burundi、ルワンダの南に位置するほぼ同じような大きさの国)では逆にツチ族が権力を掌握し、国内のフツ族を弾圧し始めたためにフツ族は難民となってルワンダに逃げ込み、このツチによって弾圧された経験を持つフツ族難民が後の( 1994 年の)大虐殺でも大きな役割を果たすことになるのです。
さらに悪いことに北部の裕福になってきたフツ族は貧しいままのフツ族に対し、社会的不公平はツチ族によるものだ、とのデマを流布させていました。そして国際的な非難を考慮して対立を煽る行為を制限しよう、としていたとされる時の大統領が暗殺(乗機が撃墜されている⋯)されるや、それを契機にツチ族の大虐殺が始まってしまったのです。
⋯しかしそれはいづれも 20 世紀も終り近い時期の話で、この時点( 1962 年)ではまだ、やがて来る「悲劇」のほんの「序奏部分」にすぎません。

7 月10日には人類初の「通信衛星」 Telstar も打ち上げられていると言うのに、いかなる通信手段の登場も、不信や憎悪というバイアスの前では無力なもののようですね。
その 7 月の末にはアルジェリアに自前の大統領 Ahmed Ben Bella が誕生しています。
8 月 5 日には、Marilyn Monroe が死亡しているのが発見されました。そしてその翌日にはジャマイカが独立。9 月 2 日にはソヴィエトがキューバに武器供与を決定。
10月 9 日にはウガンダがイギリスから独立。

そして運命の(?) 10月14日、アメリカの高々度偵察機 U-2 がキューバで建設中の基地にソヴィエト製の中距離核弾頭ミサイル( MRBM )が搬入されるのをキャッチした!と公表し、アメリカの全戦略ミサイルを臨戦態勢にすると同時にキューバへの一切の物資の搬送を阻止する海上封鎖を実行。
およそ二週間にわたった危機は、アメリカ側がトルコ国内に配備していた NATO 軍の戦略ミサイルを撤去することと引き換えにキューバの核武装を解くことで決着を見ましたが、これが第二次大戦以降、世界がもっとも「破滅に近づいた日々」と言われています。
⋯公式には、ね。

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