2005-02-08 TUE.


昨日の 1962 年のキューバ危機、その陰に隠れて、っつーワケじゃないでしょうが 10月20日、中国がかねてより国境線*について紛争中であったインドに対し、国境で攻撃を開始しています。
ま、この紛争に関しては 11月21日にそれまでに武力で侵攻した占領地域を「放棄」して中国側が自主的に(?)停戦することで一応の終結をみています。

*─中印国境紛争;英国統治下のインド時代に英国側が、いわゆるマクマホン・ライン( McMahon Line )としてチベットとの間に勝手に「決めた」国境線の位置については、(実際の国境警備をそこまで出張して行うのは困難であったため、実質上の警備線をもっと南に置いていたこともあって)そのまた隣国である中国も同意はしないまでも「黙認」的な扱いではいたのですが、中国が中華人民共和国となり、インドも英国からの独立を果たした後の 1950 年、中国がティベットを制圧したことからインド首相 Jawaharlal Nehru は、旧マクマホン・ラインにまで国境警備隊の位置を前進させました。これはモチロン中国の受け容れられるところではなく、中国側も国境線を押し戻そうと国境警備隊を投入し、互いに「押しては引く」を繰り返していたのですが、ついに 1962 年、中国側は国境警備隊ではなく「正規軍」を投入してそのラインを突破したものです。
というのも、一方のインド側では旧宗主国のイギリスの想定したマクマホン・ライン自体が歴史的なインドと周辺地域のこれまでの経緯からすれば、あまりにも安易に策定されたものであり、実際にはもっと北側にまで国境は移動させるべきだ、という論議まであって、インド側の守備隊では何度も越境し、そのラインの北側にまで前進した橋頭堡を築きつつありました。
その中のひとつ、Dhola の拠点が 60 人の中国人民軍に包囲され、これが銃撃戦に発展し、中国正規軍が一ヶ月後の 10月20日に動員されることとなります。
人民解放軍は組織的な攻撃によって、一挙にその地域を広げ 24日に交渉することをインドに提案しますがインド政府は即座にこれを拒否し、こちらも正規軍を現地に送り込みました。ただし、戦闘は中国人民解放軍の優勢なままで推移し、インド側はその地域が「僻地」であるために補給線の維持が問題で、これが中国軍の跳梁を許した一因であった、とされています。
しかし、戦列が(勝利することによって)南下するにつれ、それは中国軍にとっても同じウィーク・ポイントとなるわけで、それをさとった中国側は、この制圧地区を自国領と宣言することは、国際的な非難を受けるばかりか、やがてはアメリカの軍事的介入を招く恐れがある(事実アメリカはすでに物資補給の側面支援で、インドに空軍機を飛ばせています)こと、さらに今後、そこを国境として警備するには、プアな道路状況を乗り越えて補給物資などを届け続けなければならないワケですから、「勢いにまかせて」飛び出してはみたものの、冷静に考えれば「さほどメリットは無い」ということで「一方的に」停戦を宣言し、「最大版図」から大きく後退して事態を収拾させました。
中国にとっては「言いたいことは言った」的なこの紛争でしたが、インド側にしてみれば、これは「国辱」であったようで、国家防衛を担当する大臣は辞職し、以後、国軍の強化が至上命題となったのでした。
後に( 1980 年代のアルナーチャルプラデシ州、1990 年代のナムカチュウなど)インド軍による侵攻という形でその成果(?)は現れてくるのですが、両国の国境についてはいまだに明確な合意は得られてはおりません。
それでも、現在は、定期的な会談によって協議が続けられています。


この 1962 年の暮れには北朝鮮が全人民の武装化、さらに全国土の要塞化を決定し、アメリカとソ連の首長間にホット・ラインが提案され、さらに 12月22日から翌1963 年の 3 月 5 日まで、最低気温が 0℃ を下回る、という記録的な "Big Freeze" が英国を襲っています。

この 1962 年の末かあるいは翌1963 年の初めに New York の A-1 Recording Studioで Elmore James の「最後の」レコーディングが行われました。プロデュースはもちろん Bobby Robinson ですが、ピアノの Johnny "Big Moose" Walker ( alt. Walking Willie )以外のパースネルは不明です。

It Hurts Me Too : Enjoy 2015: Fire 2020/5000: PCD 2889/90/91
Everyday I Have the Blues : Enjoy 2027: Fury 2000: PCD 2889/90/91
Pickin' the Blues : Enjoy 2015: Fire 2020/5000: PCD 2889/90/91
Up Jumped Elmore : Fury 2000: PCD 2889/90/91
Dust My Broom : Enjoy 2027: PCD 2889/90/91
Hand in Hand-take 1 : PCD 2889/90/91
I've Got a Right to Love My Baby : PCD 2889/90/91
Talk to Me Baby : PCD 2889/90/91
Can't Stop Loving My Baby : PCD 2889/90/91
She's Got to Go : PCD 2889/90/91
Twelve Year Old Boy : PCD 2889/90/91
I Believe : PCD 2889/90/91
I Gotta Go Now : PCD 2889/90/91
Make My Dreams Come True : PCD 2889/90/91
Back in Mississippi ( conversation ) : PCD 2889/90/91
Look on Yonder Wall : PCD 2889/90/91
You Know You Done Me Wrong : PCD 2889/90/91
Black Snake Slide ( alt. Blacksnake Blues ): PCD 2889/90/91


以上が P-Vineの PCD 2889/90/91のライナーの Discography に記載された録音のリストなのですが、一部の資料では、この他に

Hand in Hand-take 4 : Capricorn 9 42006-2
You Know You're Wrong : Capricorn 9 42006-2

がこの時の録音では、としてあるのですが、この Capricorn は持っていないので、なんとも言えません。
ま、それはともかく、この録音では、かっての彼自身のナンバーを再録音しているものが見られるのですが、そのヘン、評価が別れるところでしょう。
たとえば Talk to Me Baby で言えば、あの CHESS でのテイクとはかなり違ってますよね。ワタクシがこの曲に惚れ込んだのも、Whose Muddy Shoes を先に聴いていたからであって、こちらが先だったら My Favorites には Happy Home がなっていたかもしれません。

1960 年の CHESS への吹き込みを最後に、彼は Chicago での吹き込みをしていませんが、これは、彼が Chicago の Musician's Union と衝突していたためで、それで New Orleans や New York での録音だったんですねえ。
そんな彼が 1963 年の 5 月に再び Chicago に現れ、関係の修復に入ろうとしていた矢先に彼はまたしても発作に襲われ、しかも今度は快復することなく、そのまま還らぬひととなってしまったのでした。
Elmore James はこうして、わずか 45 年の生涯を 1963 年 5 月24日に閉じました。
彼の墓は Mississippi 州の Ebenezer から Lexington への間にある The Newport Missionary Baptist Church の墓地にあり、現在見られる黒御影石状の正面に文字の刻まれた墓石は 1992 年12月10日に Capricorn Records の Phil Walden の音頭で建立されたものだそうです。

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