2005-02-09 WED.


1963 年の 5 月に再び Chicago に戻り、僅かその 4 日後の発作で一生を終えた Elmore James でしたが、その直後に訪れたブルース・ブームを思えば、もうちょっと生きててくれたら、という思いもあります。
それでも彼がブルースの世界に残していった遺産は(後継者なんているワケはないけど)様々な形で受け継がれ、今に生きているんじゃないでしょか。

でも、Elmore の後を継ぐものとして、たとえば Hound Dog Taylor や、J.B. Hutto なんて名を挙げることもあるようですが、それはあまりにも安易な「見かけ」の類似性だけでの話で、いまさら言うまでもなく Elmore James はまさに「彼ひとり」であり、同様に Hound Dog Taylor も「彼だけ」の世界を持っています。
その意味では Elmore James の「ニュアンス」をもっとも良く受け継いでいたのは、案外ジョージ・サラグッドだったかもしれませんね。
・・・なんてことはともかく、Elmore James は 1980 年には the Blues Foundatuion's Hall of Fame、そして 1992 年には the Rock & Roll Hall of Fame に名が挙げられました。

ところでこの 1963 年は Los Angeles に、アメリカ初のディスコ Whisky A Go-Go が 1 月11日にオープンした年でもありました。また 7 月 1 日には後に日本でも採用することになる、住所に対する固有の番号を設定して郵便業務を円滑にするための zip-code が採り入れられています。
しかし、未来永劫に(?) 1963 という年号をアメリカ国民(および多くの国の人々)の記憶に刻み込むことになる大事件は 11月も末近くに起きるのですが、それ以外の動きも忘れてはなりません。

この年の 1 月14日にはフランスの Charles de Gaulle 大統領が、イギリスの EEC 加盟に反対する、と発表しています( 3 月 4 日、Charles de Gaulle をつけ狙い、暗殺を企てたものの失敗した旧 OAS のメンバー 6 人がパリで死刑判決を受けています)。その同じ日にはコンゴのカタンガ州で CONAKAT 党を立ち上げて同州を独立へと誘導した Moise Kapenda Tshombe が国連軍によって拘束されています(それによって彼はヨーロッパに追放されることになるのですが、やはり舞い戻り、しかし、そこでまた今度はスペインに追われています。1967 年に彼の乗った旅客機が「ハイジャックされてアルジェリアに向かわせられ」、その地で 1969 年に死亡するまで収監されたのでした)。
2 月 8 日には Kennedy 大統領によって、アメリカ国民のキューバへの渡航、投資、商取引をすべて「違法」とする決定がなされています。
2 月28日には「公民権特別教書」を提出し、人種差別に対する政権の姿勢を「ある程度」アピールはしました。この年は公民権運動に関して、実に多くの動き(それも多くの犠牲を伴う)があったのですが、その詳しいところは、2004 年 11月11日から 21日間にわたって「連載」しちゃった Sly & the Family Stone の方をご参照下さいませ。

4 月15日、London に 70,000 人もの「反核」平和行進が到着。
5 月23日、Fidel Castro がモスクワ訪問。
ヴェトナムでは 5 月以来、ゴ・ディン・ディエム( Ngo Dinh Diem )の仏教徒に対する弾圧政策に抗議して民衆のデモが頻発していましたが 6 月11日、サイゴン市街の交差点でひとりの老僧が焼身自殺し、世界に衝撃が走りました。この時、ゴ・ディエン・ディエムの弟で秘密警察と軍の特殊部隊を掌握し信頼も篤かった Ngo Dinh Nhu=ゴ・ディエン・ヌーの夫人で、当時ヴェトナム社交界ではファースト・レデイとされていた Madame Nhu はこの焼身自殺を「バーベキュー」と発言し、民衆の反感と、世界からの非難にさらされることとなりました。
その翌日には「公民権運動」のとこでも触れた活動家 Medgar Evers が Mississippi 州 Jackson で射殺されています。
8 月 5 日には地下を除く核実験を禁止する条約が調印されましたが、中国とフランスはこれに参加することを拒否しています。すでに「持っていた国」と「これから持つ国(ま、実際にはフランスなんてけっこう開発が進んで核実験だってやってたんですけどね)」の差でしょうか。かわりに(?)インドがこの条約に後から参加しています。

8 月18日、サイゴン市内で仏教徒による反政府デモが行われましたが、まるでそれに対する報復でもあるかのように 21日には Ngo Dinh Nhu の指示によって南ヴェトナム軍の特殊部隊が仏教寺院を襲撃しました。これに対してはカンボジア政府が抗議して「断交」。
8 月28日、ワシントン大行進で、有名な "I Have a Dream"というあのスピーチが Martin Luther King から披露されました。
アメリカとソ連の両国指導者間を直接つなぐホット・ラインが開通したのもこの 8 月の 30日です。
9 月15日には Alabama 州 Birmingham であのバプティスト教会爆破事件が起こり、黒人 4 人が殺され、負傷者も 22 人にのぼりました。
9 月16日にはマレーシア連邦が独立したのですが、18日、その対応をめぐり、ジャカルタの英国大使館が暴徒によって焼き打ちされています。
10月の 1 日、ナイジェリアが連邦共和国、9 日にはウガンダが共和国に(その間の 10月 4 日、イラクがクウェートを承認してるんですねえ)。同じ日にケネディ大統領は空前の不作で食料不足に陥ったソ連に小麦の輸出を承認(興味がおありのかたは「ルイセンコ・ラマルク派」ってのでお調べくださいませ。遺伝学上の誤謬が政治によって誘引された実例を見ることが出来ますよ)。
10月15日、大韓民国の大統領選挙で朴正煕が当選。
11月 1 日にはヴェトナムでアメリカの支援を受けたとされる(自らカソリック教徒で、兄も司教の座にあったためか、仏教に対して「敵対的」で、仏教徒は共産主義者と協力している、という名目で各地の仏教寺院を襲撃して破壊し、先の焼身自殺に対しても平気で「バーべキュー」などと発言する Ngo Dinh Diem とその政権に、アメリカも次第に距離を置くようになっていましたが、これ以上、この政権を継続させることは南ヴェトナムの「崩壊」につながる、と判断し Duong Van Minh 将軍と示し合わせてクーデターを「誘導した」と言われています)クーデターが勃発し、Ngo Dinh Diem の一家は殺害されてしまいます。
とは言ってもあの「バーベキュー」とヌカした Madame Nhu はその時、娘の Le Thuy とともにビヴァリー・ヒルズにおったのですが。
しかし、Duong Van Minh を首班とする革命将官評議会が成立したものの、これでヴェトナムの混迷が収束に向かう訳もなく、アメリカはとんだ泥沼に足を突っ込んでいたことに気付かされる、ってワケ。

そして運命の 1963 年11月22日、Texas 州 Dallas において、オープン・カーで市内をパレード中のアメリカ第35代大統領、John Fitzgerald Kennedy は何者かの(「公式捜査資料がどうであれ」おそらくは複数の射手による)狙撃によって暗殺されました。
一応、その犯人とされる男は確保されましたが、その男もまた別な男によって「実にカンタンに」暗殺されており、単独犯→それをケネディびいきが報復として射殺→ちゃんちゃん!⋯なんて茶番を信じるひとなんているの?

Kennedy の副大統領、Lyndon Baines Johnson は後を継いで第 36 代大統領となったのですが、それがヴェトナムの戦局に、どのような変化を与えたか?については諸説あって定かではありません。
ただ、公民権運動の流れと、アメリカ政府のそれに対するレスポンスを見ている限りでは、Johnson 時代の方が「実りある」ように思えるのも事実です。
ま、それだって、いや、ケネディが生きていたらその後、大改革をしてたかもしれんよ、という仮定を否定しきれるほどの確証があるワケじゃないんですが⋯


さて、Elmore James が生まれた 1918 年 1 月27日から、彼の死んだこの 1963 年までを「何の脈絡も無く」並行して扱ってきました。
でも、その時代というものが、そこに生きた人間の存在にどんな影を落としていたか、は本人でなきゃ(あるいは本人でも、か?)判らないでしょう。
でも、やはり「時代」は歌であれ文学であれ、そこに様々な位相で潜伏しているものなのではないか?と思っています。
ただ単に、ああ Elmore ってこんな時代に生きていたんだな、っていうだけでも充分。
誰から学び、誰になにを伝えたか、ってのも価値あることですが、どんな社会に生きていたのか?を主眼にした、こんな見方もタマにはいいでしょ⋯(ということにしておこう)

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