New Orleans

Philip II, Duke of Orleans


2005-06-08 WED.


あのようなイエス・キリストの受難と、それを甘受してしまった「我々の悔悟」が主題であるかのように思われる Dark Was the Night、あるいは Gethsemane から、「本当に」およそ「宗教的ではない」あの New Orleans の紅灯街の娼家を採り上げた曲、House of Rising Sun に、その旋律が使われるようになったのでしょうか?

ここでいったん曲から離れ、ひとつ New Orleans という「街」を彷徨ってみましょ。
市街の南側を蛇行する大河 Mississippi 川と、北に広がる Lake Pontchartrain の間に広がる(と言っても現在ではその市街は当然拡大を続け、対岸の Gretna、Terrytownなどもその商圏に含まれているようですが)位置であり、最初はネイティヴ・アメリカンたちが 1699 年ころに港と、それに伴う集落を作った場所に、フランスからの植民たちが作り上げた町、それが当時の摂政、オルレアン公 Philip Charles( 1674 年 8 月 2 日、フランスのパリにもほど近い Saint-Cloud で、オルレアン公 Philip 一世の第二夫人 Elisabeth-Charlotte Wittelsbach von Pfalz を母として生まれています。27 才まではシャルトル公と称され、父の爵位を継承して 1701 年にはオルレアン公となる。初陣は 1691 年で、 1698 年にはルイ 14 世が嫡出子と認めた娘のひとり Françoise-Marie de Bourbon と結婚し、これによって国王からの「おぼえがめでたい」存在となる。そのかいあってか 1706 年にはイタリアに派遣され、続く 1707 年と翌年はスペインで、それぞれ外交手腕を揮ったようですが、スペイン王室に対する態度では王の不興を買い、一時遠ざけられた、と言います。しかしそのルイ 14 世が死んだ後はルイ 15 世の摂政となり、国家財政の再建のために税制改革に着手しました。その後も 1723 年12月23日の彼の死まで、強大な政治力を発揮しています。ただし、その彼が、実際に新大陸、そしてルイジアナに巡幸あそばされた、という記述はまったく発見出来ませんでしたので、その「縁」は不明です)に「あやかった」名前、Nouvelle Orleans(新しいオルレアン)を戴いて開かれたのが 1718 年のことでした。
1722 年にはフランス領ルイジアナの首府となっています。

大西洋を経由した対外貿易にとっても、またミシシッピー河を利用した内陸水運の面でも、まさに「理想的な」立地にあった、と言えるこの場所でしたが、国際政治の局面では決して順調だったワケではなく、まず 1763 年にはこの植民地はスペイン帝国に「譲渡」されてしまいます。
旧来のフランス人の入植者たちは、大いに不満を抱いたようですが、1801 年にはナポレオンのスペイン征服の甲斐あって(?)ふたたびフランスの統治するところとなっています。
しかし 1803 年にはそのナポレオンがルイジアナを「まるごと」アメリカに「売って」しまいます。この当時の人口はおよそ 10,000 人程度であった、と言われています。

このような経緯があったため、New Orleans には主にフランス文化圏の遺物・遺産が多く残っているワケで、ま、一部にスペインの残滓も見られる、とは言いますが、やはりメインはフランスのテイストでしょう。

さて、江戸川スリムさまから、1928 年には Texas Alexander が The Rising Sun という曲を録音している(あ、ちなみにモンダイの Dark Was the Night, Cold Was the Ground を Blind Willie Johnson がレコーディングしたのが 1927 年と言われております)、っちゅー情報が寄せられましたが、「それでも」 New Orleans 開港から 120 年以上も経っておるワケでして、はたして紅灯街がいつ頃から形成されるようになったのか、なんてとこをツメないと House of Rising Sun にはとても辿り着けそうもありません。(ま、それが判っても辿り着けないでしょうが⋯)

果たして、あの旋律だけが、その強いインパクトのおかげで「流用される」に至ったものか、あるいは、賛美歌からあそこへと至る「なんらかの」伏線でもあったのでしょうか?
ま、ぜ〜んぜんカンケー無いとは思いますが、あの Dark Was the Night の作者 Thomas Haweis は St. Mary Magdalene に関連して「性病」を患った患者たちを収容する病院に関わった、としている資料があるので、それを無理矢理こじつけて紅灯街に関連づけるなんてムチャも出来ないことはないでしょが、いくらなんでも、ねえ。

暑いっ!
夏だ!
⋯と言うにはちと早いかもしれませんが、市内を自転車で動きまわってると汗ダラでございます。
てなワケで、外出から帰って来ると軽くシャワー、ってのが日課となるシーズンがやってまいりました(なんて言ってると明日からグ〜ンと冷え込んだりして⋯ありがち)。

ところで、その MTB で移動すんのに、今日はちとサイズの大きい紙モノを「折らずに」運ぶ必要があって、久しぶりに大判のバッグを出してまいりました。
すると中にだ〜いぶ前に入れたらしい MD があり、ん?と思って見たら、なんと清水ミチコの CD から編集したものでございます。
そのときは急いでいたのでそのままでしたが、先ほどから、久しぶりに聴いてみましたところ、いやはや、腹がよじれるくらい笑いました。
ま、ネタが古いので最近のひとには「なにこれ?」でしょうが、元ネタを知っている年代にとってはたまらんものがあります。
ま、ネがおちゃらけてるもんで、やはし「その手」のに目が無いのよねー。

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