Blues Man

Carlos Johnson


2005-09-04 SUN.



昨日の続きってワケじゃないんですが、アルファベット順(ただしファースト・ネームが先。つまり苗字で引くんじゃなく、あくまでも我々がフル・ネームを普通に言う時の語順に準拠しています。でも Magic Sam みたいにニック・ネームがそのまま定着しているものは Samuel Maghett ではなく「 Magic Sam 」なので「 M 」の項に入ります。またグループなどでアタマに the がつく場合には the 以降からになります)にチェックしてってたらエラいことを発見!
なんと Carlos Johnson のとこで

Carlos Johnson の生い立ちなどについちゃ、この CD のライナーにインタビューと、その和訳も載っておりますので、そちらをご参照くださいませ。

で済ませちゃってるんですよ。
ぎゃははは、こりゃあんまりですねえ。

え〜と、じゃ、元ネタは同じインタビューなんですが、このライナーの和訳に抵触しないよう、まとめ直して Biography にしちゃお⋯
BGM はこれまた in and out から、その初っ端を飾るスタイリッシュな(って形容をブルース・ナンバーに使うのって滅多ないんだけど)ややファンキーな曲でございますが、いやもう、ここでの Carlos のギターが⋯
ここんとこ頑固な Stratocaster 信者になりかけてるワタクシにも、一瞬 335 もいいかもしんない、なんて心をグラつかせるよなメッチャいい音をさせておりますよ。
え?そりゃ Carlos だからで、そのギター持ちゃ誰でも出せるっちゅうもんちゃう?ぎゃはは、ごもっとも!

Carlos Johnson は 1948 年 1 月17日、Chicago の Cook County Hospital で、建設作業に従事する父 Warren と、病院に勤務するのではなく、個人に雇用される看護婦であった母 Barbara との間に生まれています。
母はブルースとカントリー・ミュージック、父はジャズとクラシックを好む、という家庭環境で育ったようですが、そんな彼に大きな影響を与えたのは、母とともに聴いていた B.B. King のギター・プレイで、さっそく自分のギター(子供用のオモチャ)で真似ていたとのことです。

12 才の時にはすでに近所のガキ⋯うっぷす、おトモダチと一緒にバンドを作り、いわゆる '60 年代ロック、例えば Led Zeppelin や Jimi Hendrix、ビートルズまで演ってたとのことですが*、それで近隣のバーベキュー・パーテイに押し掛け(?)ちゃあ 10 ドルっつ貰ってたりしたそうで。

* ─ 1948年生まれで 12 才ならば 1960、あるいは 1961年なワケですが、当時のアメリカにおけるミュージック・シーンのトピックを挙げていくと、まず有名な Ray Charles の Georgia on My Mind のヒットが 1960 年です( 11月14日に全米チャート 1 位)。
他にはプレスリーの It's Now or Never (ただしプレスリー本人はこの年の 1 月14日、軍務についてますが)、ロイ・オービソンの Only the Lonely 、ダリダの O Sole Mio 、日本では坂本九のカヴァーで知られるジミー・ジョーンズの Good Timin' 、これも日本ではカヴァーがヒットした the Drifters の Save the Last Dance For Me 、さらにこれまた日本じゃお馴染みヴェンチャーズの Walk Don't Run なんてのもこの年でした。
さらに以前、拙日記でも採り上げました Ella Fitzgerald の Ella in Berlin がリリースされた年でもあります。
じゃ、彼が言うビートルズは?ってえと、まだ Stu と Pete も含む(つまりリンゴはいない)五人でハンブルグでデビューしてたころで、当然まだ無名のまま。
続く 1961 年には the Supremes が Motown Records とサインし、ヒットではパッツィ・クラインやコニー・フランシス、さらにジーン・ピットニィなんて名前が目立ちますね。
曲では「ライオンは寝ている」がこの年。そして Dick Dale の Let's Go Trippin' 、デル・シャノンの Runaway 、さらに寿家界隈で(?)とみに有名な the Shirelles の Will You Still Love Me Tomorrow もこの年なんですねえ。
あ、そー言えば Bill Evans Trio の Sunday at the Village Vanguard のリリースも 1961 年でした。え?なんで急に Bill Evans、って?でへへ、そりゃあ Scott LaFaro ですがな。ま、そっちに行っちゃうと長くなるのでヤメときましょ。

てなワケで Carlos Johnson の言う Led Zeppelin も、もちろん Jimi Hendrix だって 12 才当時では「出現」しておりません。
よってこれらのナンバーを演っていたのは、もっと後になってからのことでしょう。


さてハナシを戻しまして、高校生の頃には Nut Cracker Swit と Seven Peace という二つのバンドを持っていた(と語っていますが、原文では和訳にある「ソウル・ミュージックの」に該当する単語が無い!と思ったら、なんと WEB 上の原文と思われた資料には「その部分」が欠落しておることを CD に付属してるライナーと突き合わせて「気がつき」ました。うげげ、なんでこゆとこを「カット」するかなあ?)そうです。
あ、それとジャズも父親の影響でか演奏していたみたいですね。

1970 年代になてからはかなりブルースに関わり始めたようで、Billy Branch に出会い、Koko Taylor や Junior Wells、そして Son Seals などと演奏するようになりました。
またこれは江戸川スリムさまのとこで本人が語っているエピソードですが、おそらく 1972 年か 1973 年あたり、これも青森のブルース・フェスティヴァルに二年連続で来た Bonnie Lee と一緒に「ジャズを演ってた」けど、ブルースの方がカネになるから、と言うんで二人揃って「転向」したんだとか。

しかし Carlos Johnson でもっとも印象に残っているのは、なんと言っても、あの Otis Rush をサポートした日本ツアーではないでしょうか。
ワタシは「とあるルート」からの録音で触れることが出来ましたが、おそらく実際にその場で聴いた方々にとっては決して忘れることの出来ない経験となっているかもしれません。

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