Kunitachi revisited

Memories


2005-09-19 MON.




さて、弘前に帰ってまいりましたが、まあ、なんと涼しいこと。
確かに、夜に着いたせいもあるんでよけーにそう感じるんでしょうが、しかしまあトーキョーは暑かったですよ。16&17の両日はまだ良かったんですけどねえ。さすがはトーキョー!

さて、それはともかく、17 日の土曜日、「ぷ」さんを都下国立(くにたち)市まで送っていきました。
「ぷ」さんの友人が某団地に住んでいて、そこにはお隣の市である国立の駅北口からバス路線が出ているとのことで、そのバスに過たず乗り込むとこまでガイドを務めたのでございます。

その国立という街は、実はワタクシが 40 年近くも前に住んでいたところなのでございますよ。
確か 25 年ほど前にも一度行ったことがあるような気がするのですが、とにかくもう記憶も定かではないくらい「前」の話で、今回、ついでだからちょっと街を歩いてみようか、っちゅう気になったものです。

もちろん特に感慨があるワケでもなく、どーなってるかな?っちゅう野次馬的な興味で当時ウロついてたあたりを歩いてみましたが、なんだかあまりに間があいてしまったせいか、どうもいっこうに記憶が甦って来ないんですよ。
なんだかあの頃の国立の町ってもっと道路は広く、ゆったりしていたような記憶があったんですが、こうして現地に立ってみると「すべて」の距離が近い⋯狭っ苦しい小規模な町にしか見えないのはどうしてなんでしょね?
あ、それがまだ小学校の低学年で身長も半分くらいだった、ゆうんなら判るよな気もするけど「成人してから」ですからねえ。もしかすっとニンゲンとして萎縮でもしてたんでしょか???
まるで知らないせせこましい町にしか見えない⋯
それでも唯一、大通りから入ってくる小路にあったレストランと喫茶店だけはまだあって、ビックリしましたが、でもその周辺も「あれえ?こんなだったっけ?」ってのばっかで、もっと覚えてるかと思ったのが案外そうでもなくて、我ながら「淡白やなあ」とちょっと感心しちゃいましたよ。

当時、ケント紙を使ってハンド・グライダーばかり作って一橋大学のグラウンドまで自転車で駆けつけ、さっそくテスト・フライトをして、出来がいいとひとり悦に入ってたもんですが、当時の面影もなにも、ただ「グラウンド」としか覚えてないみたいで、やはり、あれ?こんなとこだったっけ?でおしまい。
う〜ん、なんかも少しセンチメンタルな部分もあるかと思ってたんですが、どうもそこら「薄い」みたいで、ま、もしかすると人間としてちと「欠陥」があるのかもしれませんねえ。

以前、ある知人に、
あんたは「去る者は追わず」というのを本当に実行している希有なひとだけど、「去る者は日々に疎し」ってのが見え過ぎて、ときどき怖くなる。
てなことを言われたことがございました。

去っていくものに対し、もう少し哀惜の念を持てないのか!てな主旨だったように思われるのですが、どーもそこらへん、『だって去っていくのはそれぞれ事情もあるこってしょうし、また巡り来ることだってあるかもしれないから、いいじゃん』てなワタクシの「淡白さ」が「非人間テキ」に見えるらしいんですねえ。(ん?誰だあ?「見える」じゃなくて「だってそうじゃん」なんて言ってるのは?)

それは対人間に限らず、こんな一時期を過ごした「思い出の街」に対しても、また「かっての」ロック・グループの音やなんかにしてもそうであるらしく、当時、あんなに「愛していた」のに⋯ってのが、ま、なんにでも同じくあるワケでして、「そんだけ愛していた」からこそ、今は「通じ合うもの」すら無い、と感じるワタシってやっぱイカレてるんでしょね。

それはともかく、久しぶりに歩いた国立の街並み、ここで暮らしていた頃は、こんなにステキな街はない!なんて思ってたハズなのに(そゆ「かっての」想いだけは記憶に残っています)、なんだか、どこにでもあるフツーの街でした。
これだったら京島から抜けて来て向島も五丁目あたりの曲がりくねった狭い小路を自転車でタンケンしてた15 年前の記憶が、その屈曲にさしかかると今でも鮮明に甦るあの一帯の方が心に棲んでいる、とは言えるようです。
やはり、すべて 90 度に交わる長方形のブロックで出来た(あ、実際にはそこに駅から東西二本の斜めに突っ切る「真っ直ぐ」な道もあるんですが)幾何学的な街というのは、どこにでもある「ただの街」化しやすいんでしょうか。

そんなワケで自分でもガッカリするくらい「なんの感慨も」湧かないまま、国立の駅から中央線で帰って来ましたが、その車窓から見えた、荻窪あたりの沿線の屈曲した道路の方が、電車通学してたときに見慣れた風景として「懐かしかった」のには多少驚きました。

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