Otis Redding

1st


2005-10-02 SUN.




Otis Rush → Otis Spann と来たら、ここでもうひとり⋯そ!ワタクシのココロの三大 Otis とでも言うべき世界観(?)から言って、このひとを忘れるワケにはまいりません。

つーことで、厳密な「ブルース・サイト」では採り上げないかもしれないけど、ここはワタシの個人サイトだから「いーのだ!」と強行いたしちゃいます。
例によって何回かに分けてアップすることになりそーですのでカクゴしてくだされ(?)

Otis Redding

Otis Redding は 1941 年の 9 月 9 日、Georgia 州の州都 Atlanta からおよそ 200km 南、State Highway 520 沿いの Dawson で生まれました。
彼が 5 才の時に家族は Macon の the Tindal Heights Housing Project という(おそらくは、低所得者層のための供給住宅ではないかと思われますが)住宅地区に移っています。
彼の父は Robbins 空軍基地で働き、週末には the Vineville Baptist Church の牧師(キリスト教の各宗派における呼称の区別には詳しくないので、あるいは司祭、神父、などの方がふさわしいのかも?原資料でも preacher と minister の両方が使われてます)でもあったようです。
Otis はその教会の聖歌隊で歌い始めました。ただ、彼の少年時代、父は病に臥せっていることが多かったようですが。

その後 Bellevue という Macon 西郊の土地に掘っ立小屋みたいな家を建ててしばらく暮らしていますが、そこが火事で燃えてしまったため、ふたたび Tindal Heights に戻っています。
Ballad Hudson High School の第10学年で(日本でいう高 1 かな?)おそらく家計を助けるためにドロップ・アウトして Little Richard のバンド the Upsetters で働き(ある資料では、彼のステージ・ネームを Rockhouse Redding であった、と。ローディー兼ドライヴァーあたりだったのでしょか?当時の写真では他のメンバーは楽器を手にしているなか、彼はマイク・スタンドを手にポーズをつけているものがあります)家には週 25 ドルを送っていました。
また、当時 Gladys Williams(このひとについてはよく判りません。地方の名士でしょか?お名前からすると女性のようですが)が主催していた Sunday night talent show(それが正式名称ではなさそうですが、賞金は 5 ドルでした)では 15 週連続で勝ち抜き、それ以上の出場を断られたのだとか。
1959 年には the Grand Duke Club で歌い始め、1960 年からは Johnny Jenkins and The Pinetoppers にヴォーカルとして加わり、その地方では有名だった D.J.の Hamp Swain によって、土曜日の朝に the Roxy Theater(後には the Douglas Theatre に)で行われていた『 Teenage Party 』タレント・ショーに出演したほか、バンドで南部一帯をツアーし始めます。
1960 年の 7 月には前述の The Shooters ─ 実質はおそらく The Pinetoppers をバックに She's Alright(あるいは She's All Right )/ Tuff Enough を録音。これはシングル Trans World 6908 として 1960 年10月にリリースされています。

続いては資料によって前後を逆にしているものもあるのですが、一応ここでは同じ 1960 年 7 月の録音ではないか?という推論を信じて Shout Bamalama ではなく Alshire 5082 としてリリースされた(ただしリリースのデイトが不明) Gettin' Hip / Gamma Lama、そして同じ 1960 ではないか?とされる The Pinetoppers をバックとした Shout Bamalama / Fat Girl をレコーディング。
この録音は Confederate 135 として 1960 年中にリリースされたようですが、同じマスターにオーヴァー・ダビングしたものが 1964 年に Bethlehem 3083 として、また 1968 年には King 6149 として再発されています。


なお、彼が妻の Zelma Atwood に出合ったのが 1959 年で、結婚は 1961 年の 8 月でした。
この夫婦の間には三人の子供が生まれ、Dexter、Karla、Otis III そして実はもうひとり、Demetria がいるのですが、この次女は Otis の死後に養子となったものです。

1962 年のあの「 These Arms Of Mine 」は Johnny Jenkins and The Pinetoppers のセッティングをそのまま流用したものだったようですが、それが R&B の大ヒットとなり、1961 年に新設された Stax のセカンド・レーベル Volt を大いに潤したことにより、それ以降は Stax のハウス・バンドたる Booker T. and The MGs がフルにサポートをすることとなりました。
These Arms of Mine は Hey Hey Baby をカップリングとして STAX のサブ・レーベル Volt から、シングル Volt 103 として発売されました。この録音が彼の生活も、そして STAX というレコード会社の運命をも「変えた」と言ってよいのかもしれません。
R&B チャート 20位、Pop チャート 85位を記録。

続いて 1963 年 6 月24日に録音された That's What My Heart Needs( Volt 109。R&B チャート 27 位。カップリングは Mary's Little Lamb )は同年 6 月に(という点に、録音から発売までの期間が「短すぎる」として録音の時日に疑問を呈する向きもおられます。確かにほぼ一週間ってのはちと短いですが、それ以外の準備がすべて整ったスタンバイ状態にあったとしたら「不可能ではない」とは言えるのですが⋯)Volt 109 としてリリースされています。
さらに同年 9 月26日に録音、とされる Pain In My Heart( Volt 112。Pop チャート 61 位。カップリングは Something Is Worrying Me )も、発売が 9 月、という資料から考えれば、もしかしてそれって録音日時ではなく、リリースした日時じゃないのか?というギワクが当然のよに出てきます。
ただねえ、どーもコトはそうカンタンではないようで、話が進んでくにつれて、さらに驚愕の事実が⋯(ってのはちとオーヴァーですが) つづく

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