Otis Redding 6

BIO. VI


2005-10-07 FRI.




Otis Redding にとって 1967 年は、ヨーロッパ・ツアーや the Monterey International Pop Festival などで、実に華やかな年でもありました。
Otis のツアーでバッキングを務める the Bar-Kays にまで Soul Finger というヒットが生まれています。

そして 11 月には

The Happy Song ( Dum-Dum ): Volt 45-163/1968. 4. 8/R&B-#10, Pop-#25
Hard To Handle: Atco 45-6592/1968. 6.14/R&B-#38, Pop-#51
Amen: Atco 45-6592/1968. 6.14/R&B-#15, Pop-#36
Gone Again: STAX 33-8572 Remember Me/1992. 4.19
I'm A Changed Man: Atco 33-289 Love Man/1969. 6.20
Direct Me: Atco 45-6636/1968.11.11/C. with Papa Got A Brand New Bag
Love Man: Atco 45-6677/1969. 4.28/R&B-#17,Pop-#72
Free Me: Atco 45-6700/1969. 7.15/R&B-#30,Pop-#103
Look At the Girl: Atco 45-6723/1969.11.20
That's A Good Idea: ↑ / ↑
Pounds And Hundreds: STAX 33-8572 Remember Me/1992. 4.19
Johnny's Heartbreak: Atco 45-6742/1970. 3.11
The Match Game: Atco 33-333 Tell the Truth/1970. 7. 1
A Little Time: ↑ / ↑
( Sittin' On ) the Dock of the Bay: Volt 45-157/1968. 1. 8/R&B-#1, Pop-#1


を録音しています。

そして運命の12月10日、同じホテルに家族で投宿していた妻の Zelma の回想によれば、朝の 8 時に呼ばれて行ってみると、どことなく調子が悪そうに見えたそうです。
どこか具合が悪いの?と訊いた Zelma に、いやちょっと疲れてるだけさ、と答え、出掛ける前にちょっと子供たちに声を掛けて行きたい、と言う Otis でしたが、子供たちのなかでもう起きていた 3 才になった Otis III だけになにか話かけ、そうしてるうちに部屋までパイロットが迎えに来たのですが、Zelma はちょうど掛かって来ていた電話に応対していたため、出しなに Otis がなにか言ったらしいことは判ったけど、その内容までは判らなかったので受話器を耳元から離して Otis の声に注意してみると、「⋯ねえ、判ったかい?」というようなことを言われたので「えっ?なにが?」と尋くと Otis は「いや、君が気分よく過ごしててくれたら、と思って」と言うので、「あら、なんのこと?わたしならいつもいい気分よ」と返すと「それならいいんだ Zelma、気持ちよく過ごしててくれ」
これが Otis Redding とその妻 Zelma Redding の「最後の会話」⋯

Otis Redding と The Bar-Kays が乗り込んだ双発のビーチクラフト機は Wisconsin 州 Madison の、周囲およそ 21km、最も深いところで 22.6m という Lake Monona に墜落し、天空にひときわ輝いていた大きな星は失われてしまったのでした。
この事故によって Otis Redding とともに、バック・バンド the Bar-kays のメンバー、Ron Caldwell、Carl Cunningham、Phalin Jones、Jimmy King も死亡してしまいます。
Johnny Jenkins はこの事故を知って、どう思ったのでしょうか?

皮肉にも彼の最期に吹込んだシングルとなってしまった The Dock of the Bay はこの悲劇によってさらに注目され、R&B およびポップスの両チャートで 1 位になるという、彼にとっての最大のヒットとなるのです。

双発のビーチクラフト機が 12月の凍える冷たい水の中に墜落した事故から、ただひとり生き残った the Bar-Kays のトランぺッター Ben Cauley は奇跡的に救出され、その後 1989 年の血栓症の危機も乗り越えたのですが、その彼の証言によれば、一行は金曜の夜は Nashville で Vanderbilt の学生のためのライヴを行い、翌土曜夜は Cleveland でのライヴ。
睡眠不足のまま翌日、 1967 年12月10日の日曜日の早朝に空港に集まったのは、ほぼ半日を費やしてそこから Wisconsin 州の Madison に飛び、その夜のライヴに出演することになっていたからでした。
パイロットの Richard Fraser、Otis Redding、その付き人の Matt Kelly に the Bar-Kays のメンバー 5 人が搭乗したところで、バッテリーの不調からか、エンジンの始動がうまく行かず、地上クルーの助けを借りてプロペラを回してもらうクランキングでエンジンを掛けたそうですが、そのこと自体は低温によるバッテリーの性能低下であって、それがそのまま「墜落事故」に直結するような「強い」原因となりうるものとは思えません(ま、かといってゼッタイに原因とはなり得ない、とも言えませんが)。
そのようないきさつの後、双発のビーチクラフト機はようやく Wisconsin に向かって飛び立ったのでした。
Co-pilot 席には Otis Redding が座り、その Otis のすぐ後ろで背中合わせに Ben Cauley は後ろ向きの席についています。
あまり眠っていなかった Bar-Kays のメンバーはそれぞれの座席で眠り始め、Ben Cauley もいつのまにか眠ってしまったそうですが、機体の異常な振動で目がさめ、乱気流だろうか?と思ったものの、サックスの Phalon を見ると、窓の外を見て「 Oh, Nooo! 」と言ったので、なに?どうした!とシート・ベルトを外して立ったところで機体は水面におよそ 35 度の角度で突っ込み(もちろん、そんなこと、中にいる乗員に判るワケはないので、おそらく後からいろいろな証言を聴いて出来上がったイメージだと思いますが)、そこで一瞬、意識を失ったようですが、シート・クッションをフロートがわりにしてなんとか浮上した、と。
この時点では確か、あと二人ほど(キーボードの Caldwell とドラムの Cunningham )が水面に顔を出していたように記憶しているようなのですが、そのとき Caldwell が「助けてくれ」と言ったのに「がんばれ!」と答えたものの、それっきりだったようです。
Cauley 自身も額を強く打っており、左脚には裂傷が出来ていました。
救助された彼には当初、「他に生存者はいない」ことが隠されていたようですが、ついに彼の病室に検死官が訪れ、「君はラッキーだったよ」と言った後で顔を背け、「君はただひとりの生存者だ」と告げたのでした。
Cauley は強いショックを受け、しばらくコトバが出てこなかったそうです⋯

Otis Redding の死後、本来ならば彼自身が立ち会って行う、オリジナル・トラックに対する後処理は、主に彼ともっとも長く楽曲に関する作業を共にしてきていた Steve Cropper が、彼ならきっとこうしたハズだ、という「 Otis Sound 」をフルに尊重して行ったそうです。

それとはまた少し違う話ではありますが、今回、Rhino のブックレットに寄せられた回想の中で、もっとも謙虚であったのが Steve Cropper のものでした。
そこには真の RESPECT を感じます・・・

「つづく」

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