Robert Nighthawk

#1


2005-10-20 THU.




BLUES日記の場合、さてきょーはどれにしよっかな〜、ってのから始まって(案外ここで時間を喰うことが多くなってきましたね、最近)、それ聴いてカンタンなインプレッションをまとめ、さらに初出のブルースマンだとその資料を探す、ってえ「流れ」なんですが、当然それでメシ喰ってるワケでもないんで、そうそう時間を割くワケにはまいりません。
ほとんど資料の無いブルースマンだとスグ終わっちゃいますが、なまじ「ドたっぷり」ありますってえと、そんなのぜ〜んぶ紹介してた日にゃあ、三日連続、いやいや一週間からドトーの三週間の大連載てなことになってしまいます。

そーなると、しかたない、きょーはこのくらいにしたろやないか、てなもんがちょいちょい出てくるのですよ。
実はこの Robert Nighthawk もまさにその典型でして、日記としてアップしたときには「かなり」端折ってしまいました。
それがいま、こうして Biography に収容しようとチェックしてみると、やはり「穴だらけ!」

一応ね、Biography にゃ、ワタクシの知り得た各種情報(多少アヤしいのや、眉唾もんも含めて)をなるべく突っ込んどきたい、っちゅー理想があるワケでして、そこら、最初ともかく数だけ揃えよう、ってんで日記から当該部分を抜き書きしただけのが続いた後で Otis Rush のとこから特に、「このままではいかん!」とココロを入れ替え(?)、も少しタメになる(うぷぷ)内容を「なるべく」目指しております。

え〜、前置きが長くなりましたが、例によって「改訂版」Robert Nighthawk をまずは日記にアップして行くことといたしましょう。


Robert Lee McCollum は、1909 年の11月30日、 Arkansas 州の Helena で、父 Ned と母 Mattie の間に生まれました。
他に兄の Samuel と姉あるいは妹(いつも言ってますが、それが本人よりも年上か年下か、欧米の研究者たちは「興味が無い」んでしょうか?)の Ethel もいたようです。
1964 年のインタビューで彼は、Mother and dad and sister and brother の全員が音楽を演奏した、と言っています。特にギターを弾いていた兄は、すべての面で面倒を見てくれた、と。
ただ、よくある(?)ケースですが、彼は当初ハープを演奏していたようです。

1928 年には Mary Griffen と Friars Point で「最初の」結婚をしていますが、そこで生まれた二人の子供の上の方 Sam(下の子は Ludie ─ ただし Ludy とする記述もあります)は後にドラマー Sam Carr として有名になるのでございますよ。
その Sam Carr はインタビューで、まだ 1 才半の彼をおいて両親がいなくなり、それで Carr 家で育てられた、と言っています。母は Nighthawk に夢中になり追いかけて行ったのだ、と。
したがって彼が父と会ったのは 7 才になった 1933 年のことだったそうで、真っ赤な T 型フォードに Henry Townsend を伴って乗って来た Nighthawk は「信じるかどうかはお前の勝手だが、俺がお前の父ちゃんだ。お前がもう少し大きくなったら俺のところに来い。俺は KFFA で演奏してるからそこに連れて行く」と言い残して、次は 1937 年までは再会することがなかった・・・
しかし、このエピソードには異説もあり、それによるとまだ 4・5 才のころに Nighthawk のギグにしょっちゅう連れていかれたそうで、ステージの前あたりでずっと踊ってたとか。
7 才で初めて父に会った、ってのとは矛盾してますが、もしかすると母、あるいは Carr 家の親がわりの誰かが Sam Carr を父の演奏しているところへ連れて行っていたのが 4・5 才のころで、それを初めて Nighthawk から息子として「話しかけられた」のが 7 才のとき、と解釈することも出来るかもしれません。
そして ’40 年代に入ると、父のバンドで時に運転手として、時にはベーシストとして働いていたようです。

その Mary Griffen との結婚と同時期かもしれないけど、Robert Nighthawk は、Houston Stackhouse からギターを習ったようですが、 Houston Stackhouse によれば、ふたりは「いとこ(江戸川スリムさまの指摘によれば、ブルースマンの言う「いとこ」は日本では「血縁がある」程度の関係を指す場合が多い、とのことでしたので要注意です。ここでは Houston Stackhouse が "...we're first cousins. Me and Robert were two sisters children."と証言していますので、ホントにいとこだったようですが)」の間柄だとか。当時 Nighthawk は Torey Wood という農園主のもとで働いていたそうで日に 1ドルを貰っていた⋯
昼は一緒に農場で働き、夜はパーテイなどで演奏をしつつギターを習ってたんでしょか? Nighthawk はインタビューで 1931 年にギターを始めた、と語っています。
Houston Stackhouse 側の証言では、まず Nighthawk に教えたのが、彼自身最初に学んだ Tommy Johnson のナンバーだったそうで、最初に会ったころの Nighthawk はまだハープ奏者であり、Willie Warren とふたりで Hollandale の Black Cat Drug Store で週末ごとに演奏していた、と。
1931年には Nighthawkと Stackhouse は C & W の方のジミー・ロジャース( Jimmie Rodgers )が Jackson にひとりで来たときに乞われて一緒に King Edward Hotel でのショーで共演(!)したのだそうです。

そのふたりが行動を別にしたのが 1932 年で、Nighthawk は Chicago に。
どうやらこの単独行動の裏には、マディ( Nighthawk は彼の「最初の」結婚式で乞われて演奏したそうです。この時のパーテイではあまりに騒ぎ過ぎて床が抜けたんだとか)を頼ってレコードを出そう、てな野望があったようなのですが⋯
1933 年には East St.Louis で出会った Dan Hildrege Show というメディシン・ショーなどで歌とダンスを披露していたらしい("Little Laura" あるいは "Little Bit" という芸名の)Laura Dukes という女性シンガーと組んでいます。
その Laura が語るところでは、Nighthawk は彼女にバンジョー・ウクレレ(おそらく小型のバンジョーで「全長」が 60cm くらいのもの。弦はおそらくスティールでは無い?)を教えてくれたそうです。4弦のほーがラクだろう、って。
そしてふたりはコンビでツアー(というと聞こえはいいけど、ようするに「門付け」的な放浪生活とも言えるかもしれません。乞われるままに演奏し、そこでもらうチップで食費を賄い、宿を得る生活)を続けたようです。
この時期は主に Memphis にいたらしく、そこで John Estes や Yank Rachell、 Memphis Slim、 Big Bill Broonzy、 Sonny Boy Williamson、そして Big Joe Williams やジョン・リーとも出会っているようですね。

Estes の回想では、当時 Nighthawk はジャグバンドのフロントをとっていたらしいのですが、そのバンドの音は残っていません。
また Johnny Young は 1930 年代初頭に、Vicksburg で Nighthawk と出会ったと証言しています。

ところが、彼はなにやら事件を起こしたらしく St. Louis に逃げ出すハメになってしまいます。名前も母方の苗字をいただいて Robert Lee McCoy と変えて。
戦前の録音がその名義で行われているのはこのせいなのでしょうね。
Louisiana でトラブル(発砲事件を起こしてたみたい!)に巻き込まれてのことだったようですが、真相は不明です。
ただし、マディは当時の彼がすでに南部では「名のあるブルースマンだった」と回想していますから、本当に追われているのであれば名前を変えただけでは不充分なのではないか?という気もいたしますが⋯
1936 年から1939 年あたりは St. Louis を拠点に Chicago にまで出向いたりしてたようです。特に 1937 年の彼の Bluebird への初吹き込みでは Sonny Boy Williamson と Big Joe Williams が参加し、それ以降も St. Louis にいたピアニスト Walter Davis をはじめとして録音のために一緒に Chicago へ「出張る」というスタイルをメインとしていました。
それ以前の彼は Honey Boy Edwards、Willie "Big Eye" Smith などの回想を総合すると、Friars' Point 付近の John Mckey のプランテーション、あるいは Wooton Epps 農場(この二つのものが同じで、前者はその経営者を、後者は農園名を挙げているだけ、という可能性もあります。ただし Willie Smith の記憶ではそれを 1930 年代晩期から 1940 年にかけて、としてありますから違うものである可能性も否定は出来ませんが)で農業にも従事していたようです。

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