I'll Be Singing the Blues

The Kinsey Report


2005-10-27 THU.




戦前から戦後にかけて、確固たるプレゼンスを築き上げた Robert Nighthawk を一段落させたとこで(あ、「裏」では江戸川スリムさまからいただいた資料、特にインタビューとの「突き合わせ」作業が続いておりますが)、今日は 1980 年代以降の、もろロックのテイストを自然に発散させる「次の」世代のブルースでございます。

タイトルこそブルースがらみだし、ギターのフレーズなど、「いかにも」なブルース・テイストに溢れてはおりますが、コード進行などは、いわゆる「ブルース進行」じゃないんですよね。
実際、この pointblank VJCP-64、power house というアルバム自体、全編を通して、決してへヴィーと言うんじゃないけど、完全にロックのクリシェが支配し、おそらく 1950 年代、1960 年代のブルースを「信奉する」ヴィンテージ・シカゴ・ブルース・ファンダメンタリストたちからしたら「論外」はたまた「言語道断」!てなもんなんでしょね。

日本人も含めて「非黒人」のコリコリのブルース・マニアたちは、ブルースに「いつまでも変わらない」あの姿を求めるのが多いようですが、しかし現場では、若い黒人たちがブルースに「さほど」シンパシーを持ち得ないのはナゼなのか?
そこでは「純粋な(なんてのもヘンな話ですが)」ブルースが「現代の、都会で暮らす若い黒人たちに」訴える力をもはや失っているのだとしたら、どうしたらいいのか?
そのひとつの答えが Dion Payton にも見られる「轟音系(?)」のブルース(ま、ファンダメンタリストは、それをブルースとは認めてないようですが)たちではないでしょうか。
この Kinsey Report でも曲によっては( 2 曲目の Hit the Spot みたいに)まるでレイナード・スキナードみたいな Gibson 系ハムバッキングの歪ませないギターでリフを織り込んで行くような曲など、まるでサザン・ロックかいな?てなナンバーもあります。
ま、ワタクシの場合、ネがそっち系好き、ってえせいもありますが、まったく違和感がございません。いいぞ、もっとやれ〜!てなもんで。

むしろ、自称「ブルースにミもココロも捧げている」やら言う非黒人どもが「もろブルース(?)」を演ってる「つもり」の音楽のほーがよっぽど「虚ろ」に感じるんですがねえ。

結局は「リアル」がある!ってとこなんですよね。
この I'll Be Singing the Blues には確かにリアルなプレゼンスを感じます。
たとえそのフォームがブルースという形式からハミ出していようとも、ね。
むしろ、イメージだけ、カタチだけのブルースよりよっぽど「いい」!

ブルースってえと、すぐ白人の某人気ギタリストの名前を挙げる風潮には悲しくなりますが、いくらフォームがブルースであっても、あるいはいくら「ホンモノのブルースにシンパシーを持って」いようと、いえ、むしろ「なりきればなりきるほど」それはウソ臭くなるワケで、ま、別に白人よりは黄色人種である日本人のほーが黒人に近い、なんて強弁するつもりはありませんが、黒人を「徹底的に」差別してきた側の白人が、そのネガティヴなフェイズから立ち上がって来たブルースという音楽を「いけしゃあしゃあと」演奏してること自体がそもそも「リアルじゃない」んですよ。

モチロンご本人は「ワシゃ差別した経験なんて無いぞ」と言うでしょが、じゃ、それで「済む」んですか?と訊いてみたい。
いま現在も「なお続いている」あらゆる差別というものを「撤廃」させるために、あなたはナニをしていますか?と。

もちろん、この世は不条理だらけ、人種差別だけが人類の課題ってワケじゃありません。
でも、それは差別されたことが無い「側」の論理ですよね。
現在も差別は続いているし、しかも「それ」を持続させようとしている動きすら「ある」のです。
そんなこと音楽とは関係ないよ、という声もあるでしょうが、それに対しては「ほんとうにそうだったらいいんですがね」とだけ言っておきましょ。

さて、昨日は Rosa Louise Parks の件でしたが、まるでそれに呼応したかのように本日付けの朝日新聞には 1955 年 8 月28日に Mississippi 州 Money で起きた Emmett Till 事件が「ようやく」再捜査に入る、という記事が載っていました。
この件については当 HP の REMARKS に収容された Elmore James で詳しく扱っていますが、わずか 14才の黒人少年 Emmett Louis "Bobo" Till をリンチの末に虐殺した犯人(もちろん白人) Roy Bryant と J.W. Milam の二人は「白人だけの」陪審によって「無罪」を宣告され、アメリカの司法制度の欠陥を見せつけてくれたのでした。
ようやく犯行には 14 人もの白人が参加したことも判明し、本格的な捜査が始まるようですが、むしろ、それが始まるまでに 50 年もの年月を要したことのほうが驚きでしょう。

1950 年代のアメリカで、黒人として生きて行く、とはどういうことだったのか?を、せめて「ブルースが好き」なんて言う以上、ちょっとは考えてみてもいいのでは?

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