ギターの気持ち

2002-08-23
ここんとこ寿家のりっきーさんと、ギターについてメールをやりとりしてました。
そしていろいろな事を教わったように思います。
これまでは、私にとってギターとは、「当たり」か「外れ」のどちらかしか無く、響き合うものが無ければ、カンタンに切り捨てて来たものです。
Gibson SG スペシャルもまた、そのようにして目の前を通過して行ったギターでした。
そして、それが私の手を離れた後、どのような運命を辿ったのか、など、これっぽっちも考えてみたことなんてありません。
ま、興味の持てないものに対しては「非人道的」なまでに冷淡、と言われる私の性格からすれば、当然、と言えないこともないのですが、今、りっきーさんのギターとの関り合い方を知った事によって、私自身も、そのような行き方が「見落としていくもの」の存在に気付いて来ました。

りっきーさんのギターとの関り方というのは、私とは相当に違っています。
旧知の楽器店さんの紹介というか、推薦によって持ち込まれたギターを、じっくりと味わいながら4〜5年もかけて、自分との接点を探して行く、という行き方なのです。
弾き手がギターに歩み寄り、そしてギターも弾き手に「手なずけられて行く」。
これまで、ギターはギターだ。劣化する事はあっても、音が変化して行くことなどありえない、と思っていたのです。でも、そうじゃないんですよね。
ギターもまた、佳き弾き手と巡り逢うことによって、徐々に変化して行くのです。
プレイヤーが苦労して、そのギターが機嫌良く「鳴って」くれるポジション、弾き方を探し出す。そしてそこを選んで、充分に歌わせてやることによって、ギター自身が「響く」ことに慣れて行く。それこそ肩に力が入って頑固な音しかしていなかったものが、肩の力も抜けてのびのびと鳴るようになって行くワケです。
どうやら私の場合は、そうなるまで、じっくりとひとつのギターにココロを向け、内面の声に耳を傾けてやっていただろうか?と考えると、なんだか恥ずかしくなりますね。
私はまだまだ自分の手持ちのギターたちの「歌いたがっている」のがどんな唄なのか、に注意を払って来てはいないのです。

もちろんギターは人間じゃありませんから、人格、というものがあるワケじゃないです。でも、もし、それがあったとしたら、ギターたちに、私んトコとりっきーさんトコと、どっちに行きたい?と聞いたとしたら、ほとんどみんな「りっきーさん!」と言うだろうな。
私んとこじゃ、持ちまえのキャラクターを頭ごなしに否定されて、無謀な改造はされちゃうし、ちょっと受け応えをミスると、次のセッションでは、ホサれちゃって、お家で留守番をさせられちゃう。
エフェクターとかゆうジャマものがアンプへの途中に立ちはだかって、せっかく必死に歌った声をナンのことわりも無く、勝手に「ダミ声」やら、気色ワルいふにゃふにゃの音にされちゃう。ギターにしたら、「何の因果で、ワタシこんな目に逢うの?」と嘆きたくもなるでしょうねえ。

その点、りっきーさんトコだと、じっくり「このコは、どんな唄が得意なのかな」と、探ってくれそうです。そしてゆっくり慣らしを始めて、「良さ」をフルに引き出してくれそうですよ。ほら、あなたも行きたくなったでしょ?
でもね、りっきーさんとこは、その手前に彼のギターをすべてチェックして面倒を見て、選別までしている「専属の」楽器店さんが存在してて、その方の「お許し」が無いとそばにも寄れませんぞ。なかなか敷居が高いのですじゃ。
そこいくとあたしんトコは来るモノは拒まず、ですからねえ。
その後、どんな目にあうかは・・・
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