Ride To Freedom

Tales of Rosa Louise Parks


2005-12-10 SAT.




本日、某国営放送で Rosa Parks の生涯をドラマ化した Ride To Freedom が放送されましたが、はたしてどれだけの方がご覧になったでしょ?

ま、ドラマとしては吹き替えが「わざとら」で、そこらかなり学芸会チックで耳障りではありましたが、ま、ある時期の南部における黒人たちの生活を「それらしく」描いてはいるように思えます。
ただ、疑り深いワタクシといたしましては、こんなハイ・テンションな、「いかにもドラマ」っちゅう仕立てにすることが、はたして本当に彼女の生活を「活写」したことになるのだろうか?という疑問を持たずにはいられませんでした。

もしワタクシがこの題材でフィルムを作る(ま、ヴィデオだっていいんですが)なんてことになったら、俳優はひとりも使わず、あくまでも本人を実際に知っている人たちだけの映像で、彼女について語ってもらうことで作り上げていくことでしょう。
もちろん、そのよーなドキュメンタリー手法をとったからと言って、それがドラマよりも真実に迫ることが出来る道だ、なんて「おめでたい」短絡思想はございません。
そうではなく、想像によって美化したり、あるいは俳優が考える「こんなふうに感じていたのではないか?」という「上塗り」が誤った方向にリードするのがイヤなのです。

彼女と結婚することになる Mr. Parksにしたところで、あんな定型的な描き方では「だってドラマだから」という「虚構の世界」で全体を完結させてしまうバイアスの原因になってしまうように思います。
クドいようですが、ドキュメンタリーにしたからと言って、彼女の真実の姿を「あますところなく」描き出す、なんてことは不可能でしょう。
ですが、このドラマでは、あまりにも「ドラマだったら当たり前」のクリシェが多く、ま、ある意味 Rosa Parksに「親近感を抱かせる」という目的でだったら貢献はしているかもしれませんが、現代の目であの頃を逆照射したために生まれる「誤解」なども含まれてしまうように思えてなりません。

当時を回想するひとびとの証言にしても、そういった側面からは無縁でいられるハズはありませんが、それでも、「あの頃はそれが当然だったのよ」という呟きを大義名分で押し潰すよりはいいのではないでしょうか。
なぜ「当然」だったのか、そこから始めなくては、白人・黒人の両方にとって「不毛な」対立しか生まれてこないような気がいたします。

それはさておき、この Ride To Freedom ですが、もしかすると、彼女自身の著書、I Am Rosa Parks : My Bus Ride To Freedom を原作としているのでしょうか?
あいにくと、それを読んだことはないので、この「ドラマ」がそれに忠実なのかどうか、もワタシには判りません。
ま、ドラマでは彼女が「まだ」見ていない Mr. Parks の生活が描かれておりましたから、そこら、かなり取材でもして脚色はされとるのでしょうが⋯

今日はまたミゴトな真冬日でございますよ。
そんな日に地吹雪の本場(?)五所川原まで行ってまいりました。
メイン・ルートには真冬の風を遮るように防雪柵で守られてはいるんですが、それでも横からの強風が積もったばかりのさらさらの雪を(気温が低いとさらさら!)大量に舞い上げて一瞬、視界を奪います。
それでも、まだ積もってた雪の量はたいしたことないんでまだいいんですが、ハイ・シーズン(?)には完璧ホワイト・アウト!ここはどこ?状態になるんですよ。

そんな小規模な地吹雪を楽しみつつ(?)一旦は五所川原を通り過ぎて森田村の一番食堂へ!
そーです!チャーシュウメン!!で、また戻ってお買い物、と。
あ、そこのランチ・コートでは「お茶」いたしました。ケーキも用意して⋯
で、そのへんの食べもの屋さんでコーヒーを、と思ったらみんなコーラやジュースばっか!
っちゅうことは一角に出店してる某 T コーヒーしかないワケね?いやあ、ここのコーヒーはねえ、エグいし濃ゆいし、そのくせウマくはない、っちゅー三拍子揃っておるのですが、ま、しゃ〜ない、タマには飲んでやるか、みたいなもんでしたが、やっぱXXかった!
なまじMサイズを頼んだばっかりに、半分以上もある飲み残しを流しちゃうことになりました。これだったら缶コーヒーにすりゃ良かったね。

おまけに、そのコーヒーのせい、とは限りませんが、胃のチョーシがヘンになっちゃいましたよ。ううむ、やはりここのコーヒーは「合わん!」

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