Let Me Ride Your Mule

Man Young


06-02-01 WED.




およそ、ブルースにおけるマンドリンという楽器のポジションについては、江戸川スリム氏のサイト BlueSlimJohnny Young のページを見ていただければ、そもそもマンドリンという楽器がどのようにして生まれ、どう変遷を遂げて来たのか、に始まり、それがブルースにおいては、っちゅうところまでが詳しく記されております。

氏は、ブルース界ではマンドリンが「傍流」でしかなかった原因として『表現力の点でギターに一歩も二歩も及ばなかったのが原因であろう。』としておられますが、いささか蛇足気味な後追いをさせていただくとするなら、Chicago という大都市の、Maxwell Street のような「喧噪」の中で演奏するのと異なり、一般に南部では街頭であれ、ホーム・パーティであれ、ブルースマン独りで弾き語り、という形をとるのがもっぱらであった、と思うんですよね。
とすると、それに適した楽器というのは最も音域の広いピアノはベストとしても、放浪のブルースマンにとっては、やはりギターこそが「手軽な」音域幅を備え、リズムと低音部と和音、それに伴奏部分と、それひとつで(そのスキルさえあれば、ですけど)「かなりの」ことが出来る訳です。
では、一方のマンドリンは、というと、中世の出現当時からして、すでに「アンサンブルの」一構成楽器、というスタンスで発展を遂げて来ており、むしろそこでは、他の楽器からの「分離・識別」が容易であるように、という方向に進化して行った、と考えられます。
したがって音域は高い方にシフトし、複弦化することによって、さらに「クセ」を強化しています。
これは、この楽器がアメリカに渡り、フラット・マンドリンという新たな位相を迎えても変わることはありませんでしたから、基本的に「アンサンブルを前提とする」立ち位置はキープされてますよね。

もちろん、そのマンドリンひとつで弾き語りのブルースを、というのも不可能ではありません。
しかし、そのあまりにも特徴的な「音」は逆に「全曲それじゃあキツいよね」てなことになるのは仕方が無いとこでしょう。
貨車が減速する区間でそれを待ち受け、えいっ!と飛び乗ってタダで次の町まで⋯なんて「身ひとつ」に近い生活では、荷物が少ない方がいいに決まってます。
ギターだけで充分タイヘンなんですから、その上マンドリンもなんてことは、まあ無理?
たとえ「あったら弾くよ」というマンドリンもこなすブルースマンだって、普段はギターだけで歌っていたと思います。
そして、なんだって一緒ですが、そのジャンルに参入してくる人間が多いほど「進化は加速される」とゆう原則がありますから、ギターはますます「多様な」表現力を獲得して行くことになった、と。

さて、これまで、こと Johnny Young に関する(特に Biography など)記述は前述の江戸川スリム氏のサイトが実に「抜きん出ている」ので、そちらをご参照ください、なんて手を抜いておりましたが、今回はちょっぴりココロを入れ替えて(?)ワタクシなりに書いてみるといたしましょ。
でも、氏の記述とちゃうとこがあったら、正しいのはたぶんあっちです(!)。

John O. Young(威勢よく始めちゃいましたけど、ワタシが氏のバイオに付け加えられるっての、このミドル・ネームの「O」だけかもしんない。しかも、なんの略かも判んないんだから⋯)は 1918 年 1 月 1 日に Mississippi 州の Vicksburg で生まれています。
Vicksburg は州都 Jackson から STHY80 を西におよそ 60km ほど行ったところにある町で、古くからミシシッピー河を行き来するスティーム・ボートによる河川交通の中継点として発展していました。
Willie Dixon が生まれたところでもあり、1894 年 3 月12日に「あの」Coca Cola が、ここで初めて「瓶詰め」販売をスタートさせたことでも有名(?)です。
現代の統計では人口構成比の六割を黒人が占めていますが、当時はもっと多かったかもしれません。
おそらく幼年期はこの町で過ごしたものと思われますが、別な資料では、その幼年期を Rolling Fork よりもさらに北に 150km ほどの、と言うより、むしろ Friars Point の 20km ほど南と言ったほうが早い Clarksburg で過ごし、そこでは母が彼にハーモニカを教え、おじの Anthony Williams がギターとマンドリンを教えた、としているものもあります。
この「おじ」の存在は事実なようで、彼自身は後にインタビューに『いろいろ教えてくれたんだが、全部アタマを素通りさ。はんぶん居眠りしてたね。だからマンドリンは自己流だよ』と言っております。

ところで、 Johnny Williams と彼が「いとこ」というのにも「またぁ」なんて疑問を呈しておりましたが、なんと、ある資料で Johnny Williams が「彼とは親どうしが兄と妹(あるいは姉と弟 — これだから英語ってヤツは!)なんだよ」と発言しておりましたので、間違いなく「いとこ」だったようでございます。疑ってすまんかった!

1930 年代には Vicksburg から 60km ほど北上した Rolling Fork(同じく現代の統計では人口は僅かに 2,500 人ほど、七割を黒人が占める)で、ストリング・バンドに加わっていたようで、彼自身の言うところでは 1940 年に Chicago へ行くまでは Tennessee 州内で Sleepy John Estes と Hammie Nixon と一緒に演奏していたのだそうです。
またシカゴに出てから、時々 Memphis Minnie や Big Bill Broonzy とも共演した、と主張しているようですが、これには疑問を呈する研究者も多いようで⋯

なお、シカゴ以前の時代について江戸川スリム氏のサイトではまた詳しい情報が載っておりますので、そちらも併せてどうぞ。

その辺について彼自身がどう言っているかってえと⋯
『 Vicksburg で育って(おいおい、それじゃ Rolling Fork も Clarksburg も出る幕ないじゃん!)、みんなと交流があったよ。Charlie Patton はおれなんか眼中になかったみたいだったけどね。マンドリンじゃ Charlie McCoy* の演奏は聴いたなあ。』

* ー Charlie McCoy ; 1909-05-26 Mississippi 州 Jackson で生まれる。ブルース・シンガーであり、ギターとマンドリンの奏者で、時にはバンジョーとマンドリンのハイブリッド、Banjo-Mandolin も演奏し、Mississippi Mudder(但し紛らわしいことにこの同じ名前を兄の Kansas Joe McCoy も名乗っているケースもあるので注意)、Papa Charlie McCoy とも呼ばれている。Tommy Johnson、Mississippi Sheiks、Peetie Wheatstraw、Sonny Boy Williamson などの録音に参加している。1950-07-26 に Chicago で死亡していますが、最後のレコーディングは実兄の Kansas Joe McCoy との 1944 年のセッション。関わったグループとしては Big Joe & His Rhythm、Charlie McCoy And His Mississippi Hot Footers、Jackson Blue Boys( Blues Boys ではなく Blue Boys ね。メンバーには Bo Carter こと本名 Armenter Chatmon。そう、Mississippi Sheiks の母体である Chatmon Strings Band という一連の音楽活動で名を成した有名な家系の出なのでございますよ。1893-03-21、但し異説もあって 1893-06-30 ~ 1964-09-21、Mississippi 州 Hinds County の Bolton で生まれています。1897 年生まれの Sam Chatmon は弟、ということになりますが、その間にも別な弟がいた可能性もありそう?なお、上には 1888 年生まれの双子の兄、Lonnie と Laurie がいます。Sam と Lonnie、そして Lonnie の友人のギタリスト Walter Vinson とで結成したのが有名な Mississippi Sheiks。 Tennessee 州 Memphis の Shelby County Hospital で死亡)Charlie McCoy に Walter Vinson(1901-02-02 ~ 1975-04-22。Bo Carter と同じ Bolton 生まれ)McCoy Brothers、Mississippi Black Snakes、Mississippi Mud Steppers、Palooka Washboard Band、Papa Charlie's Boys、The Harlem Hamfats⋯

シカゴに出た Johnny Young は the Plantation Club で時にはマディや John Lee "Sonny Boy( 1914-03-30、Tennessee 州 Jackson で生まれた「いわゆる Sonny Boy I 」1948-06-01、Chicagoでおそらく強盗に襲われたらしい状況で死亡)、そしてもうひとりのマンドリン・プレイヤー James "Yank" Rachell とも出会っていたようですが、何度かは実際にステージ上で共演もしていたものと思われます。
しかし、みなさまもご存知のように、彼がもっとも名を馳せたのは、なんと言っても Maxwell Street におけるオープン・エア・ステージでしょう。
そこでは John Brim、Snooky Pryor、Big Walter Horton、John Lee Granderson( 1913 年 Tennessee 州 Ellendale 生まれのブルースマンで楽器はギター。1928 年に Chicago に移住し当初はデイタイムジョブを持ち、それでも Sonny Boy Williamson などとともに演奏はしていたが、怪我によってそれまでのような昼の仕事ができなくなったことで '60 年代の半ばからはフルタイム。ミュージシャンとなる。Robert Nighthawk や Big Joe Williams、Big John Wrencher のバッキングに参加し、いちおう Testament レコーディング・アーティスト)、そして Floyd & Moody Jones などがひしめき、まさにメルティング・ポットとして次代のバンド・ブルースの礎を熟成していたのでした。

そして、あの ORA NELLE でのレコーディング、さらに Planet へ、と続くワケですが、そこはもうとっくにクドいくらい(?)やってますから以下省略!⋯はあんまりだけど、この先はそれこそ江戸川スリム氏のサイトが詳しいので、またその時期の Johnny Young の曲を採り上げる時までしばしデペンド、と⋯

permalink No.1381

Search Form