I am the BLUES

Willie Dixon


06-02-10 FRI.




つい先日のこと、とある事項をネット検索中に、まったく知らない方のブログでこの BLUES日記を参考資料として採り上げていただいているのに遭遇いたしました。
まことに光栄なことではございますが、そこで、「 Willie Dixon が無いようですが作成中?」というようなとこがありまして、うへっ、こりゃすっかり大物を Biography に入れるのを忘れとったわい、とハンセーした次第でございます。
なんせ、気に入った(ま、タマにゃそーじゃない動機で、ってのもありますが)一曲をメインに、そのアーティストについて語ったり語らなかったり、っちゅうのが趣旨の日記ですから、どうしても「偏り」は避けられず、たとえば昨日の Odie Payne にしても、ドラムというそのポジションから、バックとして「しょっちゅう」名前は出てくるけど、なかなか主役(?)には選ばれないワケでございます。

その意味で、この Willie Dixon もあちこちに登場する割には、ついスポットを当てることを忘れておりました。
そんなワケで、今日は彼のことを⋯

しょっぱなからナンですが、彼の本名について、とあるサイトだけ Irene Gibbons である(!)としているのを発見いたしました。
いったいどこからそのような名前が出てきたのかまったく理解できないのですが、その Irene Gibbons とは、かってハリウッドの映画界において数々の女優のコスチュームをデザインした女性で、彼女の手がけた女優にはマレーネ・ディートリッヒ、エリザベス・テイラー、ラナ・ターナー、ジュディ・ガーランド、クローデット・コルベールにドリス・デイなどがおります。
ところが、彼女が愛したゲイリー・クーパーが 1961 年に死んでからは沈みがちとなり、仕事を終えた後の彼女は某ホテルに偽名でチェック・インし、その 14 階の部屋で手首を切って自殺したのです。それが 1962 年11月15日のことでした。
ま、その日本のサイトは、海外の某サイトの許諾を得て日本語化している、と表記しておられますので、もしかするとリストから読み込む際に本名のところだけ上下どちらかの欄を誤って写したのかも?と思ってその本家へのリンクで飛んでみたのですが、どうやらそちらではコンテンツが消滅しているらしく、該当する内容は発見できませんでした。
Irene というのは明らかに女性の名前ですから、おかしい!と普通は気づくハズなのですが⋯ あ、ついでに、そのサイト、記載内容の無断転載を禁じてましたねえ。
かなり前ですが、国内の Lonnie Johnson の専門(?)サイトでその無断転載を禁じる表記に出会って「この程度の内容、しかも他人の人生を調べた、言わば事実の羅列ごときがなぜ著作物ぶってるんだ!」とワタクシを激怒させ、その後のこの日記の姿勢を決定づけた、ってえあの事件(?)を思い出しちゃいましたよ。

Willie James Dixon は 1915 年 7 月 1 日、その 2 年半後には先日の Johnny Young もそこで生まれている Mississippi 州 Vicksburg で 14 人の子供たちの 7 番目として生まれています。
母の Daisy というひとが結構ユニークだったようで、目にしたものをすぐに「詩」にする、という習慣があったらしく、それは Willie Dixon にも受け継がれ、それが後のソングライターとしての彼の資質の形成に寄与していたのかもしれません。
また一部の資料では、彼が 7 歳のときに Little Brother Montgomery のピアノ演奏に触れ、それが大きな影響を与えた、としています。
その彼は 10代に入ってからは地元のバンドのために曲を書き始め、それで多少は稼ぎ始めていたようですが。
同時に地元局に番組まで持っていたゴスペル・カルテット the Union Jubilee Singers のとりまとめ役だった Theo Phelps のもとで音楽理論、わけてもハーモニィについて学び、低音の声をかわれて the Union Jubilee Singers の一員として参加していたようですから、「歌」との接点はそれが最初かもしれませんね。
ただ、詳しくは語られていないようですが、どうも法に触れる行いでもあったのでしょうか(そのへんはやや婉曲に示唆されておるだけで、具体的にどのような事情であったかは不明)、そこから Chicago に旅立った、としている資料も存在します。

ただ、それを 1932 年としている資料もある一方では、1936 年( Alt. 1937 年)に彼がボクシングで Illinois 州の Golden Gloves Heavy-Weight Champion となったことが契機である、としているものもあり、案外、初上京が 1932 年、腰を据えたのが 1936(あるいは 1937 )年ということかもしれません。
ただ、ボクシングそのものは、僅か 4 試合を行っただけでマネージャーとの意見の相違などがあって 1940 年に引退したらしく、それ以前にジムに遊びに来ては時に一緒に演奏もしていたギターの Leonard "Baby Doo" Caston とデュオを組んで、そこから音楽に集中した生活が始まりました。
当初は Caston のギターと Dixon のヴォーカルで街頭に立っていたようですが、後にはベースも弾き始めたようです。
そこにメンバーを増やし、the Five Breezes(うぷぷ。「そよ風」五人衆ですか?)となり、そのグループでは Bluebird への 8 曲の録音も経験。
ただしその翌年、Dixon は兵役に就くことを拒否したために収監されてしまいます。
ようやく 1942 年に解放されると、こんどは the Four Jumps of Jive を結成。
1943( Alt. 1945 )年にはふたたび Caston ともう一人のギター Bernardo Dennis で the Big Three Trio を結成しています。この Bernardo Dennis は後に Ollie Crawford に変わっていますが。

そのような自分のグループでの演奏以外にも、彼は請われてクラブなどでのブルースのギグでベーシストとして参加していたようです。
そのクラブには、後に Chess を興すこととなる Chess 兄弟の経営していた店もあったらしく、おそらくそこで兄弟は Willie Dixon の存在を知ったのではないでしょうか。
Aristocrat を立ち上げた兄弟はさっそく Willie Dixon を彼らの専属ベーシスととして雇い入れています。その Aristocrat での彼の初録音は、1948 年11月10日の Robert Nighthawk 名義

Down the Line : vcl. - Ethel Mae -U7127
Handsome Lover : vcl. - Ethel Mae -U7128
My Sweet Lovin' Woman : Chess 1484 ( release 1951 ) -U7130

の三曲で、ピアノに Ernest Lane、ベース Willie Dixon で吹込んだもの(ただし Nighthawk 自身の回想では、ベースが Willie Dixon ではなく Ransome Knowling だった、としていますが⋯)。
ま、本人が「違う」って言うのはブルース業界(?)では良くある話で、それを「本人が言うんだから間違いない」と考えるか、あるいは「本人のあやふやな記憶より、周囲の証言に整合性があるならそちらを採る」のか、は意見が別れるところでしょう。

ワタクシの場合、「あの」偉大なる(?)Screamin' Jay Hawkins センセに鍛えられたせいか、どうしても本人の主張を軽視する傾向があるようでして⋯

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