Hoochie Coochie Man

Willie Dixon


06-02-11 SAT.




さて、昨日のところでは、サウスサイドのクラブ El Casino Club、El Mocamba などでのギグなどが契機となってポーランドからの移民だった Leonard & Phil の Chess 兄弟と知己を得て、いわば Chess 専属のスタジオ・ミュージシャンとなった、という流れでしたが、一方では Leonard "Baby Doo" Caston らとの Big Three Trio での活動( 1947 年に Bullet Records から Columbia Records に契約し、ギグを行っていた)の「際に」Chess 兄弟に見いだされた、としている資料もあります。
それによると、当初 Willie Dixon はパートタイムのミュージシャンとして雇われたのが、the Big Three Trio が解散して後 1952 年に、フルタイムで Chess に所属したのだ、と。
つまり、昨日の Robert Nighthawk とのセッションではまだパートタイムのスタジオ・ミュージシャンであった、と言うことになります。
このあたりは、どうもいろんな証言が整合せず、また Chess 兄弟以前に Bluebird の Lester Melrose、さらに Mayo Williams( 1920 年代には Paramount に関わり、1930 年代には Decca のプロデューサー)のもとでも、例えば Tampa Red や John Lee Williamson などとの録音を行っていたワケですが、その期間については意外と軽視している資料が多いようで、そこからの軌跡としてトレースして行く視点に欠けていることなどからも、とかく Willie Dixon というと Chess、というやや安易な決めつけがあるようで、それが多少、証言にバイアスを与えているのではないか?という気もいたします。

それはともかく、その Willie Dixon の最初の、かつ重要なマーカーとなったのが、かの名作(?)Hoochie Coochie Man( Chess 1560 "I'm Your Hoochie Coochie Man" / "You're So Pretty")でしょう。
1952 年、マディによって吹き込まれたこの彼の作品によって、Chess のフルタイム契約となった、としている資料が多いところからも、やはりこの作品の存在は(現代につながるロック・シーンにおいてさえ)大きかったようです。
この時期、他にも Little Walter の "My Babe"に "Mellow Down Easy" やウルフの "Evil" など、それまでのブルースとは少し視点の違う「新鮮な」作品を多数生み出しています。
また Chess 兄弟は彼の楽曲のパワーを信頼し、所属アーティストに彼の書いた曲を歌わせ、また録音現場でのコーディネーター、あるいはプロデューサー、さらにはベーシストとしても重用しておりました。

ただし、そのことが即、彼の生活面での向上にはつながらなかった(当時 Chess が Willie Dixon に支払っていた「週給」は僅か 100$ と言われています)、という証言もあり、その辺の経済的な側面が原因だったのか、1956( Alt. 1957 )年に Willie Dixon はいったん Chess を離れ、Eli Toscano の興した Cobra に移ります。そこでは Otis Rush の Cobra 録音にも寄与しているのですが、この Cobra そのものは、みなさまもご存知のとおり、「悲劇的な終焉」を迎えてしまうワケで、結局 Willie Dixon は Chess へと舞い戻っております。

また、このとき Willie Dixon は Cobra から Otis Rush を連れて来たよなものなのですが、Chess では「せっかくの」Otis Rush を活かすことが出来ず、シングルとしてリリースされたのは "So Many Roads, So Many Train" と "I'm Satisfied" のカップリング CHESS 1751 と、同じく "You Know My Love" と "I Can't Stop, Baby" の CHESS 1775 という 2 枚のシングル、計 4 曲だけで、残る 2 曲 "So Close" と "All Your Love" は Albert King とのコンビ・アルバム Door To Door でようやく陽の目を見た、という状態です。
いわゆる 50 年代シカゴ・ブルース(ってのにめちゃめちゃ「入れ込んで」おられる方もいるよーですが)の旗手、と言ってよい Chess ですが、一方では Otis Rush や Buddy Guy などのニュー・ウェーヴを掬い上げるセンスには明らかに「欠けていた」のでしょう。


時代は 1960 年代に入り、ブルースの現場では次第にその機材面で変化が定着して行きます。
例えばアンプリファイド・ハープやギターのエレクトリック化などによってバンドの「総エネルギー量(?)」がアップするにつれ、当然ベースにもエレクトリック化の流れが押し寄せてくるワケで、そうなると Willie Dixon のウッド・ベース奏者としてのプレゼンスは徐々に低下し始めました。

そのままでは彼の存在はフェイド・アウトしていくだけだったのでしょうが、時あたかも(!)Horst Lippmann がブチ上げた American Folk Blues Festival*に深く関わることによって Willie Dixon は新たな活路を見いだした、と言うことが出来るかもしれません。

* — American Folk Blues Festival。もともとはドイツのジャズ系の版元だった Joachim Ernst Berend が、ヨーロッパの聴衆にブルースもウケるんじゃなかろか?と発案したことに始まり、それを受けてアメリカのプロモーター、前述の Horst Lippmann と Fritz Rau によって 1962 年にパッケージ・ショーとして組まれ、ヨーロッパに送り出されました。
この一行を実際にまとめ上げ、ショーとして構成したのが Willie Dixon であった、と言われています。


この企画は 1972 年まで続き、これによってアメリカのブルースがヨーロッパに広まったと同時に、Willie Dixon の評価も高くなった、と言うことが出来るでしょう。

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