No Woman No Nickel

Bumble Bee Slim


06-03-04 SAT.




ときどき、ブルースマンの中でも、当時はけっこう人気もあったらしく、かなりな数のレコーディングをしてるのに、最近じゃあまり高く評価はされてない、なんて事例がありますよね。
もしかすっと、この Bumble Bee Slim さんも「それ」に該当するのかもしれません。
どうやら 100 曲(一説では 150 曲)以上も吹き込んでおるようで、また、DOCUMENT からは彼のコンプリート・レコーディングてな「全集」までリリースはされておるらしいのですが、少なくともワタクシの知る限りでは、この人の熱心なファンっつーのが見当たりません。いえ、それどころか、Bumble Bee Slim?え〜と⋯ 名前は聞いたことあるよな気がするけど⋯ なんて反応も珍しくはありません。

この No Woman No Nickel ではまださほどでもありませんが、後期には次第にモロ Leroy Carr になって行くワケで、ヒョっとすると、そこらが「なんだかなあ」と「引かれちゃう」原因なのではないでしょか。
彼が Georgia 州 Brunswick の生まれであることから Yazoo 1012、THE GEORGIA BLUES に収録「されちゃって」ますが、聴いていただければ判るように、これは一連の Bluebird の音に収束していく「当時の」Chicago スタイルでしょう。
もちろん、そこに東海岸系の音を聴き取ることも可能でしょうが、どうもワタシには、「目指している方向が」もろ Chicago っちゅう匂いがプンプンして、あんまり Georgia って感じがしないんですが、まあ、無関係ってサウンドでも無いのでいっか。
これ、じっと聴いてると案外クセになるんですよ。ときどき「おっ!」てとこや「おお?」なんてとこがあって、ケッコー面白い!

Amos Easton は 1905 年の 5 月 7 日、前述のとおり、大西洋に面した Georgia 州の Brunswick で生まれています。
大西洋に沿って南北に走る National Highway 95 で北に向かえば、およそ 100km 強で、あの美しい邸宅が多いことで有名な Savannah ですし、同じく南に向かえばほぼ等距離で Frolida 州の Jacksonville という立地となり、大西洋交易のひとつの港湾ポイントとしてそれなりの重要度はあったようですが、その割には(?)2000 年度の国勢調査での市域の人口は 15,000 人ほど、と言いますから、案外こじんまりとした町だったようです。
独立戦争以前は英国直轄の領地で、 Savannah 同様の都市計画に基づいて設計された街路で、一時はコロニアル・スタイルの街並であったとも言われています。また時期的にはいつ頃のことなのかが判明しなかったのですが、かってここは小エビ( Shrimp )の水揚げ量で抜きん出ており、the Shrimp Capital of the World とまで呼ばれていた!
現在では黒人の人口がやや優勢なようですが Bumble Bee Slim が生まれた 20 世紀初頭の人口構成比は判りませんでした。
ただ Amos Easton 君はティーンエイジャーになるとともにこの街を離れ、サーカスの一団に加わって主に中西部の各地を転々としたもののようです。
やがて、そんな暮らしに倦んだものか、彼は Indianapolis に腰をおちつけ、ダンス・パーティやら小さなホールなどで演奏をして暮らしていたようです(ただ、この頃について詳しい資料に巡りあっていないため、プロのミュージシャンとしてだったのか、はたまた、お馴染みの Day job こみ、の生活だったのかは不明です)。
やがて音楽だけではなく、(と言うのが「音楽だけで喰っていけず」ってえ意味なのかもしれない、っちゅー気がいたします)役者として、あるいはコメディアンとしての活動もしていた、と⋯
おそらくそのあたりで Leroy Carr と Scrapper Blackwell の一連のナンバーに「惚れ込んだ」ようでして、1930 年に Indianapolis から Chicago に移った彼は、「これからは音楽一本でやってく!」と決意したらしく、さっそく Paramount に吹き込みをしています。

その 1931 年 10月の録音では Honey Bee Blues や Stumbling Block Blues 、Yo Yo String Blues などが録音されたようですが、今日の No Woman No Nickel が果たして「同時」であるのかどうかは判明いたしませんでした。一応 YAZOO では 1931 年としておりますので、まあ、「同時期」とは言えるかもしれません。
そこからは彼のケッコー凄い録音キャリアが始まるワケですが、そのレーベルも Vocalion、Bluebird、そして Decca とおそらく 150 曲以上を吹き込んだのではないか、と言われております。
ただ、その「天下(?)」も 1938 年に終わり、どっからも声がかからなくなった彼は新天地を求めて(?)Los Angeles に移り、(音楽的には)「沈黙の」十年ほどを送ることとなります。
やがて 1950 年代の後期には Fidelity や Marigold、Specialty などにポツポツと録音を再開し始めました。ただ、やはり全盛時のようなワケには行かず、彼の録音は 1962 年の Pacific Jazz へのものが最後となってしまいました。

1968 年に Los Angeles で死亡するまで、それでもちょこちょこと西海岸のクラブなどに出演することもあったようですが、もはやそこには、昔日の栄光の名残も無かったようです。

ちょっと遅くなったけど、って誕生日プレゼントをいただきました。



オランダ、PHILIPS 社製のちょっと面白いデザインのヘッドフォンです。
最初、パッケージの外から見たときはどーやって使うのか見当もつきませんでしたが、使ってみたら、なかなかいいです。
コードがなんだか布製の紐みたいな柔らかさなのも驚き!
SONY のだと、そのコードがどっかに触ると、その音が直接に伝わってきて雑音になるんですが、これだとそれが伝わって来ないのでヒジョーにケッコー!

あ、画面左側は私の「メインの」サングラス、OAKLEY M-Frame SWEEP でございます。
右側の PC は外出時のメール送受信およびウェブ確認用の H/PC(ハンド・ヘルド・コンピュータ)NEC のモバイル・ギア。
セキュリティ・レヴェルが低いもんですから、あちこち、ログインすらできない(インフォシーク・楽天系は全滅!)とこがありますが、でもやはり原稿を書くにはいちばん便利かもしれません。

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