You Don't Know What Love Is

Fenton Robinson


06-04-20 THU.




今月の 6 日には Jimmy Johnson のヴァージョンで紹介した You Don't Know What Love Is、いよいよ(?)Fenton の登場でございます。
先日、当 HP の bbs に投稿していただいた方から、なぜ Fenton が無いのか?てな疑問が寄せられておりましたが、ま、ありていに言っちゃうとミもフタも無いのですが、「あまりキョーミ無いから」ってのが真相でございます。
もちろん、それはワタクシの個人的なことでございまして、「嫌い」っつうよりはいいのかもしれませんが、ただ、はっきり言って、ワタクシの眺めておる「ブルースの地平」では彼のプレゼンスってのはほとんど「ありません」ねん。

もちろん、Somebody Loan Me A Dime のような(ボズ・スキャッグス&オールマンっちゅう)ロック方面にまで知られておる名曲を作っておりますし、けっしてその存在を否定するものではありませんが、ではどうして?となると、やはり彼のヴォーカルにあるのかもしれません。
毎回、まるで余韻を自ら味わっているかのように伸ばして歌われる語尾。
決して暴発なんてしそうもない、ある意味、内省的、ともとれる歌そのものとの距離感、どうもそこらへんが「醒め」させてくれる原因なのかもしれません。
生理的嫌悪感まではいかないんだけれど、こちらのココロを熱くはさせてくれない、どうにも馴染めないもの、そこらが彼に対する関心を失わせたのではないでしょうか。

具体的には I Hear Some Blues Downstairs に収録されていた Just A Little Bit での「失望」がそれを決定づけたように思います。
Somebody Loan Me A Dime や、今日の You Don't Know What Love Is のようなナンバーではいいのですが、Just A Little Bit では、「あの」リズムと複合して成立している、と言ってよいような曲を「あんな」スタイルでやること自体、ミュージシャンとしてのセンスを疑いましたよ。
一度そんなふうに疑問を持つと、次々とナットクできない解釈(?)を発見し、次第に聴かなくなっていった、というのがワタシにとっての Fenton Robinson なのです。

⋯と、いっこも You Don't Know What Love Is のこと書いとらんじゃないか!てなもんですが、ま、「ワタクシと Fenton 」てな本稿をアップするためのアリバイみたいなもんですから、さほど思い入れもございません。
かと言って嫌いってワケでもないので、かえって扱いに困る、てなもんなんですが、そんなワケなんで、なんとかひとつ⋯(?)

せめてもの罪滅ぼし(?)に少しばかり Biography なんぞを。

Fenton Robinson は 1935年( Otis Rush と同じ年です)9 月23日、Mississippi 州の Greenwood で、綿花とトウモロコシを栽培しているプランテーションで生まれています。
もちろん、プランテーションは白人が経営しており、彼の家族はそこに雇われた「労働者」だったワケですが。
他にも兄弟姉妹がいたのかどうかについて言及した資料にはいまのところ出会っておりません。
また、Memphis に出てくる前に彼がいたところを Alligator のライナーで Jim O'Neal は、その Greenwood に郡役所があった Leflore County としています。
おそらく、正確には Greenwood 周辺の農園だったのかもしれません。2000 年度の国勢調査では、郡全体の人口は 37,947人、ほぼ 68% 近くを黒人が占める、典型的な農業地帯のようですが、1935 年の統計ではありませんので、人口の構成比などは異なっていたかもしれません。
その彼が初めてギター(らしきもの)を手にしたのは、彼が 11 才のときで、これまたお馴染みのシガー・ボックスから自作し、ワイアーを張ったものだった、と言われています。
そして、もっぱらジュークボックスや King Biscuit Show の放送などから流れてくる演奏(特に T ボーンだったとか)を手本にしていたようです。
やがて 16 才になった彼は、初めての「ちゃんとした」ギター、13 ドルだった Stella のアコースティック(あいにく、それがフラット・トップだったのか、あるいはピック・ギター系の f 字形サウンド・ホール&アーチド・トップのモデルだったのかは判りません。ネダンからみてフラット?)を手に入れ、今度は本格的に学ぶために Tennessee 州の Memphis に出て、そこで自らのバンドを率いて活動していたギタリストの Charles McGowan に会いにゆき教わっています。
そしてその 2 年後には本格的に Memphis に移り、いっそうトレーニングに集中することに。
やがて、その甲斐あってか、彼は前述の Charles McGowan のバンド、The McGowan Brothers の一員として演奏活動を開始しました。この時期には Bobby Bland のバックも経験しています。
同時に Castle Rockers というバンドにも参加して一帯をツアーして回ったり、WDIA への出演などもしていたようですが、こちらは一年ほどで解散してしまいました。

1954 年には Memphis から Arkansas 州の Little Rock に移り、そこでふたたび自己のバンドを結成、そして Fenton Robinson and the Castle Rockers としての活動を 1956 年から開始しています。
同年、Roscoe Gordon の Duke での吹き込みに起用され(一説では Keep On Doggin' )、これが彼の(メインではないにしても)初録音じゃないでしょうか。
その翌年には、あの Elmore James や STAX story でも登場した Bihari Brothers の末っ子 Lester が本拠であるウェストコーストから離れた Memphis で 1952 年におっ始めたレーベル Meteor で Fenton Robinson 名義による初のレコーディングが行われ、そこにはギターとして、あの Charles McGowan も参加しています。
曲は Tennessee Woman と Crying Out Loud。
他に Robert Williams のテナー、J.W. Hughley のドラム、そして氏名不詳のピアノで、Meteor 5041 としてリリースされています。録音場所はもちろん Memphis。
そしてここでは Fention Robinson and his Dukes(おそらく前年の Roscoe Gordon との Duke 録音の名残りかと⋯違うか?)

翌 1958 年にはこんどは Texas 州 Houston で Duke に吹き込み。
このときは Fenton Robinson and the Castle Rockers 名義となり、またバンド・メンバーであったテナーサックス奏者 David Dean を「立てた」David Dean's Combo のふたつで録音しています。
他には James Booker のピアノに Larry Davis のベース、ただしドラムは不明。

The Freeze : Duke 190
The Double Freeze : Duke 190( by David Dean's Combo)
Mississippi Steamboa t: Duke191
Crazy Crazy Loving : Duke 191


この Freeze ってのは Albert Collins にタッチの差で先行発売され、その割りを喰ったのか、あまりパっとしなかたそうでございます。
相手が Collins じゃあそうだろ(?)。
一説では、Fenton Robinson がこの Larry Davis を Little Rock の Flamingo Club で「発見し」、一緒に演奏していたところ、それを見た Bobby Bland が Duke の Don Robey に紹介したことで録音につながった、と。
もちろん、このときに Larry Davis は「あの」Texas Flood を、ってワケですね。
続く 1959 年には、これも Duke で

As the Years Go Passing By : Duke 312
School Boy : Duke 312


をレコーディング。ここではピアノが氏名不詳となり、代わってドラムが Jabo Starks と判明しています。そして同じ 1959 年ながらやや間をおいて

Tennessee Woman : Duke 329
You've Got To Pass This Way Again : Duke 329


を録音。David Dean の他にもうひとりサックスを入れ、ギターも Johnny Brown と Earl Grant の二人を投入。ただしベースは Larry Davis ではなく、Hamp Simmons、ドラムは Nat Kendricks でピアノはやはり、の James Booker。
この 1959 年録音の 4 曲は、Rounder 2031、ANGELS IN HOUSTON に収録されています(タイトルの Angels In Houston は Larry Davis の同名の曲から。当然それと、他にも Fenton がギターで参加した Texas Flood に I Tried も収録)。

1961 年には Chicago に移り、そこでスタジオ・ミュージシャンであった Reggie Boyd に師事してギターのレッスンにハゲんでおります。
この時期の彼はレコーディング・セッションでサイドを務めたり、またライヴでもバッキングに回ったりしていたようですが、そんな彼にレコーディングのチャンスが巡ってきたのは 1966 年のことでした。
USAに吹き込んだのは

Say You're Leavin' Me : USA 842
From My Heart To You : USA 842


の 2 曲で、このときのバックは、サックスに B. Gardner(他一名)、ピアノが Detroit Jr.、Bobby Anderson のベースに Billy Davenport のドラムです。
さらにその翌年には、彼の代表作となる、「あの曲」が登場するのですが、それはまた明日!

なんだか久しぶりにネットで「調べもの」してると、以前に参照したサイトが「消え」てたり、あるいは移転してたり、と僅かながら変化しているのを感じますね。
移転ならいいんですが、以前、なかなか頼りになる戦前もののサイトがあったんですが、それがコツゼンと姿を消しておりました。

それが、「私が好きなのは~」とか、「~だから好き」なんてゆうハナシだけで出来てるよなサイトだったら別に消えたっていい(ってことも無いけど)として、きっとキッチリ調べたんだろうなあ、っていう資料的なものまで運命を共にしてネット上から消えてゆく、というのは、なんだか大げさに言うと「人類の損失」のよな気がしませんか?
サイトを閉鎖する側にはそれぞれの事情があって、一概には言えないのでしょうが、なんとか、その貴重な資料的な部分を他のサイトに継承してもらう、なんてワケにはいかなかったのでしょうか?
あるいは更新はストップしても、アーカイヴとして残す途なんてのはなかったんでしょうか?

ま、もっとも、そのサイトを主宰しておられる方にしてみたら、むしろ、そんな資料的なとこじゃない、「~が好き」ってとここそが重要なのであって、その「表現」を閉じる以上、他のファクターには、これっぽっちも未練は無い、ってのがホントなのかもしれません。

いつもの CAFE JEEBA、 外に面したカウンター席でコーヒーを呑んでいたら、目の前でひとりのご婦人が自転車をとめて、タクシーを待っておりました。
どうやら最近稼動し始めた自転車も運びます、ってサービスなんでしょね。
そこに呼ばれたらしいタクシーが登場し、てっきり自転車をトランクに入れて前輪からハンドルは外に出たまま、ってスタイルで運ぶのかと思ったら、いえいえ、実にリッパなキャリアがトランクの中から出てきて、それには、ちゃんと前輪と後輪をそれぞれ乗せるベースが用意されており、しかもそこに乗せてからラバー・ベルトで固定し、さらにはフレームまでも別なベルトでカクホしてミゴトに背中にしょって(?)走り去ったのでございました。
うひょ~、いつのまにあんなシステムが開発されたんでしょね?
前輪なんて、ちゃんとハンドルを切って、角度をつけた状態でタイヤが乗るように設計されてるようで、なかなか良く出来ておりました。
不要なときには畳んでトランクにちゃんと収納されちゃうようだし、そこらもしっかりと設計されてますねえ。
おそらくタクシーで正式に採用するとなると、しっかりと検査もあるでしょうから。

でも、ここんとこのリストラ続きでタクシーのドライヴァーは増え続け、ひとり当たりの所得は減少傾向にある、と聞きます。
リストラして企業は生き残っても、社会全体の可処分所得が減少して、景気はまたダウンしてく、ってゆう悪循環。
そんな暗雲が晴れる時期は来るのでしょうか?

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