奥州平泉

02-10-19
大曲のとめごろおさん、先週末は奥羽山脈を越えて岩手県に入り、平泉町と遠野市を訪れていたようです。

平泉かあ、たしか12年前くらいに行きましたねえ。まだ Honda Beat を買う(つーか、免許とる)前だったんで、JR の在来線で辿り着いた平泉駅からゆっくり歩いて10分くらいでしょうか、とめごろおさんはケッキョク入らなかったようですが、浄土庭園と呼ばれる毛越寺(もうつうじ)から訪ねたものです。
観光客さえ居なけりゃ素晴らしい所だろうなあ、という自己矛盾そのものの印象でしたね。
だってそう言う自分も観光客なんすから。
多分、陽が昇った直後の早朝など、誰も居ない時に見たなら、さぞや素晴らしいことでございましょう。

およそ、観光地と言われるところに、これは共通した矛盾ではないでしょうか?
特に、有名な写真家が撮影した「風景」の写真集や、観光ポスターなどに惹かれて行ってみると、「?」ってのは「よくあること」でございましょう。
ま、もちろんその理由としては、撮影技術(スモークを使って目障りなモノを隠してしまったり、広角レンズの「寄り」で主題のみを強調したり、逆に望遠系で風景の中の一部だけを切り取ってあったり)によるところもありますが、なによりも、その最大の相違点は「人間の存在」ではないでしょうか?
特に「日本的」な名所にこそ、その傾向が強いような気がいたします。
この毛越寺もそうですが、あの広い庭園に自分たち以外には、ず〜っと向こうに人影が2つほど、なんてシチュエーションでなら、それこそ、奥州藤原氏のかっての栄華に思いを馳せる、なんてことも出来そうな気がしますが、前の駐車場には大型バスが4台も駐まっているし、フツーのクルマが10台以上も並んでる、ってえ状況じゃ、そりゃムリでしょ。
案の定、賑やかなオバチャンたちの嬌声が飛び交っておりました。

それでも曲水の宴に使われた遣水など、意識を集中できる部分ではまあ、いいのですが、庭園全体に意識を「開放」することが必要な全体像を把もうとすると、やはり、観光客の存在は、「邪魔」でしたね。
それが、同じ観光地でも、たとえば、TDL や、USJ などの欧米系のテーマ・パークなどでは、逆に「ヒトが居ること」が、その価値を高めることにつながっているような気がしませんか?
想像してみてください、ほとんどヒトの居ないガランとしたテーマ・パーク。
もの凄い寂しい、というか「荒廃した」印象じゃありませんか?

テレ朝系の「探偵ナイト・スクープ」という番組で時おり、桂小枝が担当する「パラダイスもの」。あれが笑えるのは、その内容のあまりの「ショボさ」によるものでしょうが、同時に、ほとんど入園者ゼロという状況が、「テーマ・パーク」という設定を徹底的に破壊しているからでしょう。
したがって、この手のテーマ・パークというものは、常にイヴェントなどを企画して、ある程度の動員を確保していないと、来園者に「なんだかサビレてる」という印象を与えることとなり、その印象は口こみでアっという間に広まってしまい、それがまたさらなる「冷え込み」をもたらす、といういわゆる悪循環に陥るワケです。

とめごろおさんが訪れた中尊寺も、ある種のテーマ・パークとして意識されているフシがあり、それは江戸期などのお伊勢参りに通じる「〜詣で」的な、講中あげての参詣などの対象となっていたものと思われます。
そんな歴史の足跡が、境内(というには山ひとつ、の広大な寺域ですが)のいたるところに記憶されているようで、その意味ではたしかに「客慣れ」している、と言えるかもしれません。
その境内のメイン・ストリートの喧騒(ってほどでもないけど、寺としちゃ、ね)に背を向けて、観光客があまり足を踏み入れないゾーンに入ってみたら、静寂の中に色のくすんだ能舞台があり、そばの樹ではリスが走りまわっていました。
この光景は「寺」というイメージには合っていて、かなり満足はしたのですが、それが本来の中尊寺の「在りよう」に添ったものであるかどうかは、疑問かもしれません。

たとえば浅草寺の雷門からの仲見世の賑わい。
あれはヒト嫌いの気があるかたからしたら「とんでもない」ものかもしれませんが、でもねえ、あれがあってこその観音様だと思うんですよ。
一方、竜安寺の石庭ならば、他には誰ひとり居ない、という状況で眺めてみたいものです。
現実には不可能でしょうが・・・。
permalink No.189

Search Form