もひとつ平泉

02-10-24
先日、とめごろおさんの日記絡みで、奥州平泉の中尊寺について、講中などによる参詣の対象として云々と書いたのですが、中尊寺を対象とした参詣や巡礼についてもう少し詳しく書いておきたいと思います。

平泉の町そのものはご存知のように源頼朝の攻撃によって灰塵と帰したのですが、中尊寺は室町から江戸、という時間の流れの中で次第に信仰の対象として大衆に認知されていったようで、その陰には、寺による再建への努力があったようです。

850年(嘉祥三年)に開山し、同じく平泉にあった毛越寺(もうつうじ)に次ぐ大きな伽藍を構え、数々の堂宇をかかえた中尊寺では、領主たる葛西氏の登米(「とよま」。北上川をはるか下った、平泉からは南南西に直線距離で40kmほども離れた宮城県の登米郡登米町寺池。松尾芭蕉は「奥の細道」で、平泉の前にこの地も訪れている)への遷居によって行政のとばりの外となってしまったようで、維持管理や補修もままならず、きわめて悲惨な状況であったようです。
有効な援助が得られないまま、とりあえず古材などで、どうにか倒壊は免れているような建物でなんとか取り繕っていたものの、それも 13 世紀の末近くにはもはや限界となったようで、弘安十年には時の政権に支援を請願したのですが、その願いが届くどころか、その直後の建武四年( 1337年)には、周辺の野火から燃えうつった火災により、経蔵と金色堂以外の建物をすべて焼失してしまいました。

この時、中尊寺を信仰する周辺の信徒や郷民によって、浄財の寄進や労働奉仕を通じての再建への動きが活発化したようです。

もちろん、寺側としても手をこまねいていたワケではなく、勧進を受けるために周辺各地はもとより、人口が密集した都会にも僧を派遣し、参詣や巡礼の対象としての中尊寺の存在をアピールし続けたようで、その際に各地の講中で披露した、今でいう観光ポスターに相当する絵図「中尊寺参詣曼陀羅」が(製作された年代が確定しておらず、国宝などの指定は受けていないようですが)静岡県静岡市にある「芹沢銈介美術館」が所蔵している「中尊寺参詣曼荼羅二曲屏風」では、そこに描かれた人物などの服装や周辺の風俗の分析から室町時代から江戸初期の庶民が描かれており、また堂宇の有様は、おそらく伝承込みの「初代、清衡から第四代までの栄華を究めていた様子の再現を目指したもの、と考えられ、実際の製作年次については十六世紀後半から十七世紀前半の間ではないか、とされています。
もっとも実はそれ以前に「平泉諸寺参詣曼荼羅図(中尊寺の所蔵する「中尊寺本」)」や、同じく「平泉諸寺祭礼曼荼羅図」が存在し、その先行した曼荼羅図を参考にしつつ「中尊寺参詣曼荼羅二曲屏風」が描かれたのではないか、とされていますが、芹沢銈介が仙台市内の古美術商から入手したとなっているものの、それ以前の来歴は「まったく不明」とゆうことで、そこらの出自不明が「国宝指定」に至らなかった原因だったのかもしれません。
天正元年( 1573 年)にこれまた火災で消失していた毛越寺と観自在王院の再建費用の寄進を集めるため、各地を巡回した時に閲覧してもらうために製作された屏風絵ではないか、とされてるようですね。
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