Naming rules

Now and then


07-10-18 THU.






本日の突き当たりは、百石町から元寺町に上がる鉄砲町からの眺めです。
この香月とかいうお店はなかなか美味しいというベーサーMのお話でしたが、いまだに入ったことがこざいません。

もうかなり昔のハナシになりますが、この左手前の角に沿って曲がった左側だったかに、かって文化食堂とかってのがあって(もしかすると文華食堂?)、観桜会ー現在は「さくらまつり」に平易化されちゃいましたねえ。あ、大正期の当初は「觀櫻會」と舊字だったポスターが残ってますよ。ーの行き帰りなどにそこで「中華」を食べたよなキオクがあります。家族に連れられて、ね。
もっとも半世紀ほども前のハナシですから、かな一りキオクも曖昧ですから、とんだ勘違いをしているかもしれませんが⋯

この鉄砲町というのは藩政時代の職分に応じて棲み別けていた頃の名残りなんでしょうね。
市内には他にもここと並行した通りで鞘師町やら、少し離れたところでは鍛冶町(あ、もともとの鍛冶町は現在「本町」言われてる辺りにあったのだそうですが、モッチロンかなり前で、ワタクシの父ですらまだ生まれてない「時代」のハナシでございます)、大工町、桶屋町、銅屋町、紙漉町、禰宜町、馬喰町、若党町、五十石町、鷹匠町、紺屋町、徒町なんていう「いかにも」な町名が残っています。
お馴染みのブルーズンがあるのだって「代官町」ですからね。
あ、一般的に藩政時代の町名は紙漉町(かみすきまち)、禰宜町(ねぎまち)徒町(おかちまち)とゆう風に「町」を「まち」と読むのでございますよ。一方、明治新政府以降の命名である「明治天皇の行幸にちなみ、陸軍の士官倶楽部であった偕行社に近いところ」では御幸町(みゆきちょう)と名付けられております。
また旧制「弘前高等学校」が大学となった一廓は文教地区ちゅうことからか文京町(ぶんきょうちょう)と命名されるなど、「町」は「ちょう」と読まれるのでございますねえ。
しか〜し、なんでか百石どりが住んだ百石町や同じく五十石町では「まち」なのに代官町だけは「だいかんちょう」と「ちょう」になるのがフシギでございます。語呂がいいから?
まあ、それはそれとして、職分に応じた棲み分けからの命名に比べると、城東に城西、城南やら城北なんていう地名って、なんか、いかにも便宜上の呼称って感じがするな⋯
あと、ウソ臭いな、思うのが「桜ヶ丘」やら「欅台」なんてゆう歴史的必然じゃなく、行政的な便宜上の「とってつけたよな」地名ってのもコトバとしてどうこうじゃなく「薄ら寒い」もんがある⋯なんて文句つけるのはワタシくらいのもんかもしれんけど!

今日もまた良い天気となりました。
それでも日いちにちと気温は静かに下がっており、さすがのワタクシも、夜には窓を閉めて眠るようになっておりますよ。

そんな昨今ですが、秋には秋の楽しみがあり、てなワケで(?)さっそく本日は一閑人の新蕎麦を味わってまいりました。
北海道産という蕎麦はこれまでよりも白く輝ぎ、透明感のあるすっきりとした味わいで、ここの濃いめのツユには著でつまみ上げた蕎麦の下半分だけをつけて啜り込むと、最初に蕎麦のほのかな甘みがきて、しかるのちにツユの味わいが追いかけてくる、という至福の悦びがあります。うん、江戸風の濃いつゆならではの愉しみと言えるでしょう。
あ、そうそう、市内のデパートで江戸の味を、ってな催しがあって浅草今半の牛肉の弁当なんかが売られてましたねえ。
明日あたり、昼前に覗いてみよっかな?

permalink No.2005

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