Somewhere unknown place

First impression is all


08-10-12 SUN.





「ここではない、どこかへ」という言葉は、ワタシ自身、どこで出会ったのか、そしていつだったのか、も今では定かではないのですが、ワタシにとって「それ」は、単純に「空間的な」意味における「未知の場所」への渇望として心に刻まれたフレーズとなったのです。

したがって、(今はデザインも変わって外されましたが)ワタシのもうひとつのホームページ、自転車との生活をメインにした A SONG of the WINDS では、そのコビーが劈頭を飾っておりました。

それが、今日の新聞の読書評のところで、ある評者がその言葉を「世間に甘えたような気配が察せられ、癇にさわった~」と書いてるじゃないの。そりゃまた随分と非「好意的」に解釈(曲解?)したもんだな⋯そんなこと書くこと自体が「世間に甘えた」そのものなんじゃないの?

いささか驚きました。ワタクシのような「単純な」アタマにとってその言葉は、未知の場所への欲求と結びついたものだったのですが、その評者はそこにメタファーとしての「ともかく現状から脱出して、異なった相( Phase )へ」という「脱出願望」を見たのでしょうか?
まあ、そこで取り上げてた「書」そのものをワタクシは読んでおりませんので。読んだら同じよな感想を持ちそうな甘ったれた方向で満ち満ちてたからそ〜なったのかもしれませんけどね。

その手の「脱出願望」を持つこと自体が「世間への甘え」という観点には結びつきそうにもないですが、そこでは単純アタマなワタクシなんぞには想像もつかないような別なリンケージが存在するのでしょう⋯

そして、その言葉自体の出典については、「小劇場演劇(原文のまま)」周辺らしい、ということも書かれており、あるいは、ワタシの知らないその公演の内容自体からも、その評者には「世間への甘え」が感じられたのかもしれませ〜ん。

そのあたりの経緯はよく判りませんが、ともかく「ここではない、どこかへ」というコピーに、そういうことを感じるニンゲンもいるのだ、ということが面白かったです。
こちらでは、(なんせ単純なアタマなもんで)シンプルな、それこそ「一面的な」意味合いで使っただけのコビーでも、受け取る側がそこに「多面的な」広がりを読み取ってしまうのは、そのひとの自由だし、それこそ「読者の特権」でもあるのですが、書く側としては、そこら、もうちょっと「想像力」があれば、ある程度は予想できるのかもしれませんね。

もっとも、極論すれば「基本的に」言葉でなにかが伝わることはない!伝わったように見えるときだって、それは一種の誤解を伴って(いや、伴ったからこそ円滑に)受容されたのだ、と思っていますから、こちらとしては「誤解されて当然!」というスタンスでおります。

既知の「ここ」ではなく未知の「どこか」⋯
ワタシにとっては、ガイドブックや「ひとさま」のブログなどで知って「行ってみたい」と思う「どこか」じゃなく、なんの予備知識もなく「通過するだけだったはずの場所」で出会う様々な刺激にこそ意味を感じるから、の言葉なんですけどね。

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