Eddie Bo III

Recordings


09-04-09 THU.






さて、本題に帰って Eddie Bo です。

Algiers 地区と、9th Ward と呼ばれる、コミュニティとしても機能し、住民による「ある種の自治活動」によってひとつの文化圏を形成していた、とも言われる地区(余談ですが、「あの」ハリケーンではかなりな被害を受けたようですけど)で成長したようですが、なにしろ身内に Henry、Charles & Peter というミュージシャンがいたワケで、そんな環境に影響を受けないワケはなく、おそらくそのスタートは、かなりジャズに接近した位置から始まったのではないでしょうか。
また、それらのいとこたちばかりではなく、彼の母からしてが、あの Professor Longhair みたいなピアノを弾いていたそうですから、それも彼の音楽的素養の一部を形成したのかも。

高校( Booker T. Washington High School )を卒業後、軍務に就いていますが、生年から追って行く限りすでに第二次世界大戦は終結していたハズなので、おそらく実戦の経験をすることなくブジに(?)除隊したものと思われます。
New Orleans に帰ってきた彼は Grundwald School of Music に入学し、そこでは理論的な裏付けとなる音楽理論などの他、あらためてピアノを学び直しているようで、その当時の彼は、ロシアの有名なクラシックのピアニスト、Vladimir Horowitz に傾倒していたようで、一方では Art Tatum や Oscar Peterson にもココロ動かされていたようで、そのへんは ボキャブラリーの豊富さにつながって行くのかも。
もっとも、意外とブルースのミュージシャンとの交流も多かったようで、LaSalle Street の Dew Drop Inn などで演奏していたようです。
もっとも、やはり基本はジャズだったようで、 Spider Bocage Orchestra( Spider Bocage ってのは 彼の当時の「芸名」だったようです)という名前のジャズの楽団も率いていました。
しかし、現実モンダイとして、ジャズは「カネになる」とは言い難かったようで、もっとカネになると思われる R&B にシフトし、Earl King や Guitar Slim、Lloyd Price に Ruth Brown、さらに Big Joe Turner に the Platters などのサポートとしてツアーを経験もしています。

また Eddie Bo は、およそ半世紀にわたる音楽活動を通じ、かなりな数の楽曲を作り、かつリリースしてきました(彼の初レコーディングは 1955 年の ACE への吹き込み)。
そしてプロデューサーとして Irma Thomas に Robert Parker、Art Neville、Chris Kenner などに関わっていますが、彼の楽曲で有名なものとしては、1961 年の 彼自身の初の(そこそこ?)ヒットとなったナンバー Check Mr. Popeye に続く曲、I'm Wise が Little Richard によって Slippin' & Slidin' として大ヒットしています。
他にも Etta James には My Dearest Darling、Tommy Ridgley には In the Same Old Way を提供しました。
やがて 1969 年には自作のナンバー Hook and Sling で R&B チャートの 13 位にまで到達。
このあたりには「ニュー・オーリンズ・ファンク」というジャンルに属すると見られるようになっていたようです。
彼がレコーディングしたレーベルはさすがに多岐に渡り
ACE / APOLLO / ARROW / AT LAST / BLUE-JAY / BO-SOUND / CHECKER / CHESS / CINDERELLA / NOLA / RIC(なんと、Eddie Bo は家業?の大工の腕を活かし、ここのスタジオの建設にも関わったのだそうです)/ SCRAM / SEVEN B / SWAN
など
となっています。
1950 年代から、実に半世紀の長さに及ぶ彼の音楽活動ならでは、でしょうね。
もっとも、彼とても、常に音楽シーンの第一線にとどまっていられたワケではなく、 1970 年代には一時、ミュージック・シーンから姿を消したかのように思われたこともあったのですが、二枚のアルバム、"Another Side of Eddie Bo"、"Watch for the Coming" で帰ってきました。
1980 年代以降の彼は、Dirty Dozen Brass Band とともにレコーディングしたり、Willy DeVille と共演したりと活動の場を広げ、ブルースしか判らん、というかたでも、それなら知ってる!と言いそうな(え?知らんて?)Raful Neal とも共演してるんですよね。

ところで、あのハリケーンですが、ちょうど彼がパリにツアーに出ている間に自宅やスタジオが「やられて」しまったそうで、帰ってきた彼はさっそく得意な建築技術でもって、「自力で」修復したそうです。いいなあ、そうゆう腕があるってのは!

そんな彼も 2009 年 3 月18日に、心臓発作により死亡いたしました。

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