Child

In the family


09-10-11 SUN.





親子の間にあっては、そこで受け渡される「情動」ってのは決して「等量」ではないし、また「等質」でもない。
かつて小林秀雄が、自分の母親の愛情のありようについて、自分がなにをしても「この子はそうゆう子だ」という受け止めかたをしてくれた、というようなことを書いていて、それを読んだまだ未成年だったワタシは「自分のなかで腑に落ちる(?)」ものを強く感じたものです。
親にとってはその子が「どんなパッパラパ〜でも、あるいはスットコドッコイでも、はたまたリッパ(!)であっても、かわいい。
しかし子のほうでは「どうしてそんなこと出来るの?信じらんないっ!」てな具合に突き放す時期が来る。
その時期を過ぎれば、ああ、それでも愛してくれていたんだな、とナットク出来るのだが、ヘタすると死ぬまで脱出できず、親を突き放したままで行くのだ。
親は親で、どうして自分の愛情を判ってくれないのか?と不満だからイロイロと働きかける。
子はそれをまたウザい、と感じ、ますます距離を置くようになる。
子が親のあれこれを批判するのは、それだけ自立心が生まれてきたから、と言えないこともない。
それまでの家族間限定のシキタリやらオキテってものが、どうも世間のジョーシキからはハミ出ているように思えて、その疑問は親の人格否定にまでつながりそうな勢いで脳内で肥大してゆくワケだ。
でもまあ、それもそれもしかたがない。
それがまた子の親に対する捉え方を通じて自我を確立してゆく途なのだから。
それでもなお、やっぱりかわいい、と思っているのが親なのだから。

もっとも、世の中、なんにでも例外ってのはあるから、子をかわいい、と思えない親もいるだろうし、一方では逆に「親にまったくなんの疑問も持たない子、ってのもいるとは思うけどね。

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