飛騨高山の中華そば

2003-02-05
つい先日、ここで「ご当地ラーメン」として弘前のラーメンについてカタったら、友人からメールが来て、テレビの旅番組で見た「飛騨高山」の中華そばってのがやはりカツオの和風ダシに細いちぢれ麺で、チャーシュウとメンマだけってシンプルなとこも「そっくり」だったそうです。
カツオがメインってとこがちょっとちゃうけど、成り立ちはかなり似ていますね。
あ、それと、その番組では、細いちぢれ麺ってのは、屋台の名残りだ、と言う説明がされてたそうです。寒い中、あまり「お待たせ」しないよに茹で時間の短い必要があったんだってことらしい。
でも、屋台の名残りってんなら、むしろ、茹で時間が短くて済むから、その分コストも安くなるワケでしょ?そっちのファクターもある(つーか、そっちのほーが大きい?)と思うんだけど。
ま、それはともかくとして、やはりベーシックな、あるいはシンプルなラーメンが、「ラーメン・マニア」(こーたりん言うところの「ラーメンの鬼」たち、ね)対象ではなく、日々の生活のひとコマとして地域の人たちに愛され、世代を超えて受け継がれている様子ってのは「いい」もんですね。
ある意味、郷土料理化している、とも言えるワケで、もしかしたら、こんなふうに「ごく当たり前に」日常食として各地に定着してるラーメンの、地域ごとの「違い」を調査してみたら面白いかもしれませんね。
たぶん微妙な違いで遷移してゆくんじゃないか、と思うんですが、その一方、これらの「日常的」ラーメンとは一線を画す、「ブランド化した」ご当地ラーメンとの「落差」の大きさはスゴいです。これは「ハレ」と「ケ」の関係に相当するのかもしれません。
ことさらに特色を強調し、過剰なまでに演出される「郷土色(あるいは地方色)」で、どんどん作品化してゆく「ハレ」としてのラーメンが目指すものが「行列の出来るラーメン」だとすれば、いわゆる「ラーメンというもの」を普通に作り続けるうちに、次第にその土地ならではの「偏り」を持つにいたり、その周囲のお客さんに過不足なく受け容れられるようになった「ケ」としてのラーメン、こちらが目指すのは、いつまでも地域の人たちに「愛され続ける」ことじゃないでしょか?
そして「ラーメンの鬼」たちは「行列の出来るラーメン」には挑みかかる、ってえ習性をお持ちのようですが、日常的なラーメンには、あまり食指が動かないようです。おかげで「能書たれ」のマニアたちに毒されることもなく「日々の」ラーメンが残っているんですね。

ところで、今夜はよっすぃ〜が寿家にシケこんでるハズ。あの「鍋狂い」のこと、嬉々として鍋をたいらげておることでございましょう。なんて書いてるそばからメールが!
鍋に天婦羅、ビールにウーロン・ハイ、仕上げに雑炊だって。やっぱしなあ。予想通りでございます。
ワタシゃあ2回の上京時に各2回、都合4回も寿家に行ってますが、一応プチ・オフ会みたくなっちゃってるんで、最後まで「ちゃんと」お話しが出来るように(血中アルコール濃度があるセンを超えると、自分じゃあほとんどなにも語らず、ひとさまのお話しをただニコニコして聞いてるだけになっちゃうもんで)、ずっとビールだけで来てたんですが、たまにゃあ、話しなんぞ二の次で、ぶぅちゃんごスイセンの「ひれ焼き」と地酒蔵寿家でひとりでご機嫌になって、頃合を見て「うな重」でシめ、ハラいっぱいになったとこで「おかみ、お勘定!」って、サっと帰って行く・・・ なんてのもやってみたいなあ。
とか、聞いたふうなコト言ってるけど、実際はってえとゼッタイそこらのギターに手がのびて、ハっと気付くとりっきーさんとセッション真っ只中つーことになってて、次に気がついた時にゃ、お二階のスタジオでまた違うギター抱えてる、ってえていたらく。で、もいちど意識が戻った時にゃナゼか布団に入ってて、隣りを見るとぬまむ〜ちょが寝息たててる、なんてことに・・・。え?そーなるに決まってる?ええ、ワタシもそー思う。
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