Conseptual Art
としての音楽


2003-02-13
さて、ありゃあ、いったい何時ごろじゃったかいのう?って、ちょっと思い出せないくらい前(と言っても、この1年以内のコトなのは確かなんですけど)なんですが、日本国内の若手音楽家の登龍門とも言うべき、部門別の音楽コンクール、ってのをテレビで見たことがありました。おそらく、年に一度の催しなのではないでしょうか?
なんて書くと、えー?聞いてないぞう!部門って、どんなの?ギターはエレキとアコ別?ブルース・ハープは?なんてえシツモンが・・・
あるワケないか。そ!カン(?)のいー方が思ったとおり、これは「クラシック」と言われる音楽の世界でのお話なんですよん。

ワタクシ、ことクラシックに関しましては、嫌いってワケじゃないんですが、かなりな「門外漢」でございます。
まず、譜面が読めない。これは、たとえ読めるようになったとしても、譜面通りに演奏しなきゃいけない、ってのが気に喰わないんですよ。
なまじ「譜面の初見で演奏出来ます」なんて言ったら、いきなり譜面わたされて「じゃ、このとおりやって!」なんてコトになるでしょ?「まともな」クラシックじゃ、譜面だけじゃなく、キッチリ音合わせもしますから、いきなり、ってことは無いんですが、ポピュラーでは「ベンリ」なヤツとして重宝されます。
でもねえ、ワタシとしちゃあ、アドリブの余地が無い、ってのがどうも・・・

クラシックの場合、作曲と演奏の分化がかなり「高度」に進んでますよね。もちろん、名演奏家でありながら、数々の名曲をモノした天才もおられるようではございますが。
作曲専門の方の作った曲を演奏の専門家が採り上げる。それが両者ともに同時代に生き、コミュニケーションもとれて、この部分はもっとこんな風に、なんて指示やサジェスチョンが送られ、あるいは解釈をめぐってのディスカッションなどを通じて「造り上げ」て行く、ってのが可能なら「ある程度の」創造性みたいなものを「演奏する側も」活かせるとは思うのですが、では、何世紀も前の作品を採り上げる場合はどうなのか?
また、テンポや強度の分布など、解釈によってはそれなりの「自由度」があることは認めますが、「肝腎の」譜面で明らかに「指示」されている「旋律=メロディ」から逸脱することは出来ないワケでしょ?
とすれば、唯一「残る」のは「旋律=メロディ」である!と、ワタクシなんぞは「クラシック」ちゅうもんを、そのよーに解釈しておるワケでございます。

さて、ここでハナシは(よーやく?)冒頭に戻りまして・・・
その音楽コンクールには器楽演奏部門の他に、作曲部門もあったのです。
普通、クラシックというものを想起するさい、アタマの中に流れる旋律というものが、皆様それぞれにあると思います。ヘンデルの「ラルゴ」であったり、ドヴォルザークの「新世界より」、あるいはモーツァルトの「レクイエム」・・・ むしろリズムが前面に出ているラヴェルの「ボレロ」なんて毛色の変わったものもありますが、大体は、旋律の「美しさ」、「親しみやすさ」が、クラシックの「属性」である、と受け止めている方が多いのではないかと思います。
では、旋律の「美しさ」とは、一体なんなのか?ナゼ、美しい、と感じるのか?
なんだかコレも昨日の「快・不快」同様、どこに由来しているのか「分析・解明」が困難な部類に属するもののようですね。
幼児期からの「音」環境の履歴(当然、胎内で聞いていたと思われる母親の心音、腸内雑音に始まり、場合によっては「子守唄」、さらに自然界の音、テレビからのものも含む生活騒音、そして音楽教育を受け始める、という流れ)に大きく左右されているのでしょうが、なにがどう、という因果律にまで辿り着けるかどうか・・・

それはさておき、その作曲部門を見て、ヒジョーに困惑してしまいました。
その、「現代の」作曲家を目指しておられる人たちの作品が、どれもまったく「美しく」ないのです。
不協和音一歩手前の異常なテンション・コードが続くなか、なんの脈絡も無く「雷光」のように落下して来る緊迫した旋律!しかも旋律と言えるほどのシラブルを構成し得ていない衝撃音のようなひらめき。
こうして文字で書くと「スゲえ!」なんて思われるかもしれませんが、まあたしかにコンセプト・アートとしての存在感は「あります」。
しかし、「音楽」として「成立」し得ているのでしょうか?「音学」としては、これでいいのかもしれませんが。

私、クラシック好きです。と言う方々でも、そのクラシックの「正統な」後継者であるハズの「現代音楽」の演奏も好きだ。なんてのは稀なんじゃないでしょか?
それを聴いていて、考えこんじゃいましたよ。
これ作ったヒトも、それ審査するヒトも、そこに「価値」を見出しているワケですよね?
そりゃ確かに、「芸術的」ってのと「美しい、あるいは快い」は完全に別なモノだ、ってえ考え方も理解は出来ます。理解は出来ますが、あんな作品にゃあ「そっぽ」向く「クラシック・ファン」がほとんどだ、ってえとこにモンダイあるよなあ。

大半のクラシック・ファンが求めるものが「旋律の美しさ」や「やすらぎ」だったりする現実の中で、これらの「純粋芸術」を目指す「真面目な」作曲家たちは、「どこかで聴いたことのあるような、美しい(だけの?)旋律」を武器に市場に浸透し続けている「ニュー・エイジ・ミュージック」から、聴衆を取り戻すことが出来るのでしょうか?

それにしても、旋律における「美しい」とは一体、何によっているのでしょ?
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