美々津と飫肥

2003-02-19
先日、そまっちが教えてくれた「ねりクリ(宮崎県の高鍋温泉が、自然免疫を研究している企業と共同開発した、温泉水を使った保湿化粧水で、肌に塗るゲル状の健康商品)」のコトを調べようと思って、案内されたサイトを覗いてみたら、ん?ケッキョク「ねりクリ」についちゃ「人気の”ねりクリ”はすぐ売り切れ」のひとことでおしまい。
で、「高鍋(たかなべ)・ねりクリ」で検索をかけてみると、ふむむ、宮崎県北部にあるのね?明治期の廃藩置県では、南半分の「飫肥(おび)伊東藩」を反映した「都城(みやこのじょう)県」と、「高鍋藩」を中心とした「美々津(みみつ)県」の二つが2年間併立していたようですが、すぐに統合されて「宮崎県」となったようですね。
そのあたりは、ここ青森県でも同様で、一時期「弘前県」ってのもありました。

ところで、その日向(ひゅうが)市美々津は南の日南(にちなん)市飫肥とともに国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
武家屋敷を中心とする飫肥に対し、美々津は鎌倉時代以降、交易の中心地として東九州随一の「商都」として立ち上がり、江戸時代には、高鍋藩によって材木の積み出し港として本格的に整備された、という街の成り立ちがもたらす当然の帰結として、町屋がその中心となっているようです。
耳川の河口、日向灘に面した美々津湾を抱くように、連なる瓦の屋根も美しい街並みは、全盛時には「美々津千軒」とまで言われ、おおいに賑わったもののようですが、やがて近代化の波とともに日豊本線(大正12年)や国道10号線が開通し、大量輸送が船便から、陸上の鉄道および道路網に移行してゆくにつれ、美々津も次第にさびれて行ったようです。
しかし、いまなお、盛時を偲ばせる回船問屋や、古い商家が多数残っており、1986年、文化庁によって国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。これは、1977年に指定された飫肥地区に次ぐ、宮崎県内で2番目のものです。

一方の、最初に指定された日南市飫肥は、宮崎県の最南部に位置する無霜地帯もある温暖なところで、飫肥伊東藩の城下町です。
飫肥城そのものの創建時期は不明らしいのですが、伊東家と島津家による勢力争いの眼目となっていたらしく、飫肥城をめぐって1484年から攻防がほぼ1世紀近く続き、伊東義祐に攻略されたり、再び島津氏に帰したりもしていたのですが、1588年、豊臣秀吉によって伊東祐兵(すけたけ)が飫肥に封じられ、それ以後14代にわたり、伊東氏の居城としてほぼ280年を過ごしました。
しかし、廃藩置県に伴って、主要な城館や櫓などのすべてを失っています。
国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された2年後にはかっての城門が再建され、往時の姿をいくらかでも取り戻しているようですが。
町屋が主体となっている美々津に対し、飫肥地区は、飫肥藩の武士たちに分け与えられた武家屋敷町が指定の対象となっています。
禄を充分には与えられない、という地方の小藩の方針として、替わりに敷地だけは充分に与えたものらしく、個々の武家屋敷の広さは弘前市仲町(なかまち)地区にある武家屋敷の区割りの2倍近くあるのではないでしょうか。
弘前では「さわら(椹:ヒノキ科の常緑針葉樹)」を使って直線状に切り揃えた生垣が武家屋敷を囲っておりますが、この飫肥の武家屋敷の場合、三尺ほどの石塀の上に、上質の飫肥杉(これもまた日本三大美林のひとつだとか)で組んだ「源氏塀」という独特の構造で、それはどうも「台風対策」らしいんですね。
特に、塀の内側にまわると副え木を介して重しとなる石に固定された塀は、少しくらいの強風でも充分耐えられるそうですから。
そのような風情ある街並みに、南国風の植物が混在し、独特の雰囲気を醸し出しているそうです。なんたって、宮崎と言えば「南国」ですからね。
三月も近い今ごろはもう、目にまばゆいばかりの「陽光」で満ちているのではないでしょうか?
ここ、津軽のいまだ雪混じりの曇り空の下で、いっとき思いを九州に馳せ、未だ見ぬ日向灘の輝きを空想するのもまた「趣」がありますね。

現在は「ちりめんじゃこ」の水揚げを中心とした漁業の町として静かにたたずんでいる日向市美々津町。南国の日差しは、美々津のちりめんじゃこをとりわけ美味しく仕上げてくれるんでしょうね。陽光が恋しいなあ。

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