Leica

2003-02-24
ワタシの時代(?)、写真の世界を語る座標として

 伝説→木村伊兵衛
 重鎮→秋山庄太郎
 芸術「家」→アラーキー
 芸術「屋」→シノヤマキシン
 革新→森山大道
 尖鋭→中平卓馬

みたいな位置付け(ま、もちろんヒトによってちゃうでしょうが)があったものですが、そのアラーキーが新聞のコラムに載ってました。

今年に入ってから、カメラをライカ一本に絞ったらしいのですが(そー言えば、最近テレビで見たアラーキーは Leica Mシリーズを何台か使ってたなあ)、でも、なにかが違うと思ってすぐにやめたそうです。
さすがアラーキー!
Leica なんぞで「あの」世界は造れんでしょ。
そゆのはケツに「屋」がつくヤツらに持たせときゃいいのよ。
アラーキーはオリンパスとかのオート・フォーカスのコンパクト・カメラや、ペンタックスのドンくさい 6×7一眼あたりでバリバリ「声、掛けながら」撮ってって欲しいですね。

ライカは「音がしない」のをいいことに、相手に気付かれないように撮る(カッコつけてスナップ・ショットなんて言ってますが、ただの「盗み撮り」じゃん)「瞬間泥棒」どもに好まれてますが、でも、どっちかってえと持ってるコトをイバるために「買う」ヒトも多いんじゃないかなあ。
よーするにスイス製機械式高級腕時計みたいなもんやね。
確かにそのメカニズムの「美事さ」は芸術的ではあるけど、カメラならそのメカニズムの美しさなんかじゃなく「何を、なぜ撮るか」という「写真」の意味を側面で支えるだけのものでいいし、時計なら「正確に時間が判るコト」が重要なんであって、その「お道具」がいっくらゲージュツでも意味ないっしょ。

銀塩写真でメカ的にダイジなんはレンズとフィルムだけで、カメラ・ボディってのは外光を遮断して、落としてもカンタンには壊れないとか、ある程度正確にシャッターが動くなんてとこさえ押さえりゃジューブンなんですよ。
え?ピント合わせ?そりゃ出来たほーがいいけど、二重像合致式距離計ってヤツ、コンパクト・カメラのオート・フォーカスの「30倍も」優れてますか?あるいは安い一眼レフの 15倍以上のネダンなんだけど、写すレンズと見てるトコがちゃうからパララックス(視差。つまりファインダーで見て OK!と思って撮ったら、プリントじゃ、手前に配したハズのハイビスカスがカンジンのお顔の下半分を隠しちゃってた。なんてコトに)は「解決」されてないし。
・・・ と書いてくると、ますます、コイツはよーするに「コレクターズ・アイテム」だな!って気がしてきますねえ。
イバりは利きますからね。ましてや「プロの」センセともなりゃあ、一眼はハッセルブラッド、ハンド・カメラにライカ、なんてえのがステータス!てなとこがありますから、いまに見てろよ、このオレだって・・・ とイキんでいる「下積み」のみなさんも多いコトでしょう。

そんな中、そのヘンでなんぼでも売ってるフツーのコンパクト・カメラで、次々と作品を生み出してゆくアラーキーの存在は「凄い!」ものでしたからね。
その彼がライカとは?とテレビの中の撮影シーンを見て「いぶかって」おりましたが、やっぱピンと来なかったのねん。さすがざます。

いえいえ、別に「ライカ」でロクな写真が撮れるワケ無え!なんて言ってるんじゃございませんのよ。
写真は「お道具」じゃない、ってえコトが言いたいワケでして。
基本は「何を、なぜ撮るのか」。これでございます。「何を使って撮っているのか」なんてコトは、作品の質には一切カンケーございません。
ま、それをショ〜バイとされておられる作者(?)の側から見ますってえと、作品の「有り難み」にはカンケーしてくるんでしょうケド。

ライカ・レンズの描写力とか「味」なんてコトを語るお方も多いですが、それってオーディオ・マニアが、かってレコード盤を再生するのに使う「カートリッジ」の優劣について激論を交わしとったのと一緒で、ダイジなのは「音楽」なのに。ってのと似てますよね。
なにが写ってるか?が重要なんであって「味」だなんて、「レンズ研究家(んなもんいるかどーか知らないけど)」ならいざ知らず、絶対評価による「序列」より、そのひとの「好みに合うかどうか」だけじゃんねえ。重要なのは!

いまだにカメラ雑誌の月例コンテスト見ると「撮影データ」が付いてるのね。
カメラとレンズの名前、絞りはいくつでシャッター速度が幾ら、フィルム名まで。
アホくさ。
もっとも、そんな雑誌のタイトルにも決まって「カメラ」って言葉が付いていますから、これは「カメラ雑誌」であって「写真雑誌」じゃないってコトなのねん。
日本人は「写真」より「カメラ」が好きみたい。
あ、これは「写真」のおハナシですよ〜ん!コト音楽に関しちゃあ、そりゃもう、ぜ〜んぜんちゃう・・・ かなあ?
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