うた

2003-03-30

およそヒトは一体ナゼ歌うのか?
会話や朗読や演説ではなく、歌うことでのみ伝えられるなにものかがある、とでも言うことなのだろうか?
また、自分自身にとってみても、たとえば喜びや嘆きなど、制御しきれない「感情・情動」から溢れてくる「自然な」独語というものとはまた、意味が違っているのだろうか?

そも、歌うことの起源はなんだったのか?
個人としての「相( Phase )」から感情のバイアスによってメロディが発生したのか?
あるいは、集団での儀式的な側面から、統合する手段として旋律を持つに至ったのか?
それならば、なぜ経文を唱えるうちにおのずと節回しが生まれて来るのか?
そしてそれを言語化した「旋律」というものは、共通の文化的背景を持つ集団内で固有の特質を持ち始めるようになるのはナゼか?
そこには言語と同様の選別メカニズムが働いているのか?
旋律を伴って伝播してゆくことのメリットとはなにか?

たとえば、宣旨や詞書を読み上げる際に、なんらかの節回しのようなものが付随する例は見られます。また和歌を詠み上げるときにもそれが見られるようですが、しかし、それが「歌」というものの「起源」である、と決めつけるのは「安易」に過ぎるでしょう。
およそ人類が「知性」を獲得し、さらに言えば、ひょっとして「言語」以前の段階で、すでになんらかのコミュニケーションの手段として、旋律とまでは言わないにしても、音高の変化によって、何事かを伝えていた可能性はあるのではないか?そして、その「遠い記憶」、「種としての記憶」が、後の様々な局面で、「ことば」に自然に投影されて「詠い」を生み出しているのではないでしょうか?

もし、そのような原始的な情動の発露が、音高の変化をもたらしていたとするならば、少なくとも、およそ人間が持ち得る様々な感情に固有の、あるいは呼応した旋律のパターンというものが存在するのでしょうか?また、地域的な環境がもたらす変異もかなりな偏差を持つものと思われます。
ただ、そのような「原初」の「うた」からは、もはや、あまりに隔たった時代を生きる現代人にとって、その辺を想像するということ自体が困難であるのかもしれません。
それにしても、「うた」をそのような個人に帰するものと捉える限り、「巧拙」は問題ではなくなります。逆に「歌垣」のように、集団のなかでの儀礼に準拠するひとつのルールとして捉える方向では、「巧い・下手」の評価が必要になってくるのではないでしょうか?そのような「うた」の延長線上にあるものが「カラオケ」なのではないか?という気がしています。

カラオケの場合、最終的に「このように歌わなければならない」というモデルが既に存在し、いかにそれに近付いているか、で評価というものがなされるワケです。
おそらくそれが、集団的「うた」のありようによって誘導されているのではないか?というのがワタシの考えです。
そしてさらに、そのような技巧的な側面に適合できない人たちによって、(よっても)「楽器」の発展というものを加速させて行ったのではないでしょうか?

その意味で、「すべての楽器は、ヴォーカルを代行し、あるいは拡大したものだ」と捉えることが出来ます。
と、これを言ったら、「いや、絶対それは違う、逆にヴォーカルも楽器のひとつだ!」と、言い張ったミュージシャンがかっていたんですが、そいつ、そこまでこだわったワリには、ケッキョク音楽からカンタンに足を洗っちゃいましたね。だからワタシが正しい、というんじゃなく、そんな一見、逆説めいたことを、もし、そうだったらどうなるか?ということを「考えてもみない硬直した感受性」そのものに「限界」があるんじゃないか?ということです。

原初、人間はいたが楽器など存在していなかった。ならば楽器は表現の多様化につれて周囲から取り込まれて行ったのではないのでしょうか?
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