リズム

2003-03-31

すべての楽器は、ヴォーカルを代行し、あるいは拡大したものだ。という極論に抗し得る有力な対抗馬を挙げるとすれば、それは「打楽器」ではないでしょうか?
人間は、身体ひとつしかない状態でも、拍手や指を鳴らす、あるいはヒザを拍つなどの行為によって、なんらかの意志を表示したり、音楽にあっては演奏に参加することが出来ます。

原初、人間はいたが楽器など存在していなかった。
ならば楽器は表現の多様化につれて周囲から取り込まれて行ったのではないのでしょうか?と、書きました。
では、最初の楽器とは「打楽器」だったのではないか?
ほんの僅かの知性さえあれば、なにか固いものを掴んで、それで同じように固い対象を叩くと、拍手なんぞより「とんでもなく」デカい、あるいは耳につく音が出る、ということはカンタンに理解できますからね。

つまり、「注目!」というメッセージになり、あるいは「ワタシはここにいる」のサインとなり、「広報」の役割も果していた、と。
しかし、それは「社会学的」な側面に過ぎません。もっと「生理的な」側面、生命に感情に深く関わっていく部分、それが「リズム」だ、と考えています。
おそらくリズムというものは、「生命」の代名詞、そして「状況」の象徴だったのではないでしょうか?

現代とは異なり、真の暗黒や、真の静寂に遭遇した人類にとって、自分自身の心音、あるいは寄り添って眠っている幼児の耳に無意識レヴェルで浸透してくる、母親の心臓の鼓動・・・ このような、低い周波数でのシンプルなリズムが、人間にとっての、最もベーシックなリズムとなったのではないかと思います。

乳児にとっての母親の心音は、おそらく胎内での記憶(と呼べるような新皮質の変成は伴わないものであるにしても)につながる「安心」の「記号」として、生活を、いや、生活の安寧を象徴していたのではないか、と思います。
そして、行動期に入ってからは、動物たちの足音、鳥の羽ばたき、あるいは蝉の音、カエルの合唱など、ありとあらゆる「反復音」が生物の、生命の存在を示唆するものであることを知る・・・ その意味では、もしかすると、リズムがメロディよりも先行しているのかもしれませんね。あの粘菌の(カルシウム・イオンによる?)不思議にシンクロした「律動」や、Fire fly tree で一斉に同調して明滅するホタルたち。

おそらく「脈動」は、知性に先行する最も根本的な生命の証し、と言えるのかもしれません。
およそ、生物である限り、循環器系は生命の根幹をなすものであり、しかも、構造的にも、必ず「プッシュ・プル」の「脈動」を伴うこととなります(筋肉の作動原理自体が ON・OFF あるいは、PUSH・PULL である以上、律動を伴わない「連続的に給送する」メカニズムは「不可能」となる)。
したがって、リズムのインテンシティーの変化、そしてテンポの変化というものが、その生物のおかれている状況をキチンと反映し、そこに「意味」を生じてくるとすれば、当然、表現の手段としても利用できるワケで、そのことが「自己表現」としての「演奏」や、場を統一するための「儀礼的」な様式化をもたらしたのではないでしょうか?

儀式化されたリズムから、さらに通信の手段としての「トーキング・ドラム」にまでなると、ひとつの血族的集団を越えて(なにしろ、音には「指向性」が無いので、他の集団にも聞こえる可能性があります)、周辺の集団にも(内容はともかく、その「技法」が)伝播してゆき、やがては地域的な広がりを持つに至った・・・ と、これはアフリカを想定しての「想像」であり、はたしてアジアにおいても同じことが言えるのかどうかは「?」なのですが。

このように、本来、人体のみに依る「発音」を考えると、「声(あるいはクライ)」と、拍手などの打拍音が原点となります。そこから人類は様々な楽器を生み、多様なリズムを開発し、「音楽」というものまで作り上げてきたのでしょう。
でも、時々こうして、最初はどーだったんだろ?とか、どんな風に始まったのか?なんて考えてみるのが好きです。

まあ、たしかに、ここまで高度化し、細分化された現代の音楽シーンに、だからといって「還元」できるワケでもないのですが、案外、重要なベクトルを与えてくれるような気がしています。
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