Vocalise, not "vocalese"

2003-04-15

連日の好天で、市内を走りまわるの、ず〜っと HARO F-1 ばっかしなもんで、クルマにゃうっすらと春のホコリがかかり、なんだか白っぽく見えますね。
自転車での移動だと、やたら裏道ばっか選ぶんで、交通量が少なく、おかげで、いろんな考え事をしながら走ってられるのよね(クルマで「考え事」はキケンです)。ま、だいたいは今晩ナニ喰おうか?とか、なんか忘れてるコトあるよな気がすんなあ〜、なんだっけ?なんてレヴェルのが多いんですが、でも、ごくタマ〜に、ガクジツテキ(?)な「考察」をトツゼンし始めちゃったりするバヤイがあるのでございます。

実は、本日も、HARO F-1で風を切って走りながら、フと気付いたら、ラフマニノフのヴォーカリーズを低く口笛で吹いていたんですよ。ワタシが!
いやはや、ニンゲン、無意識の時にいろんなコトするってのは判りますが、まさか、このワタクシがこともあろうに「こんな曲」を?(あ、こんな曲、なんて言うとケーベツしてるように聞こえるかもしれませんが、そーじゃないんですよ。あたしゃあ自慢じゃないが、クラシックの素養なんてもの、これっぱっちもありゃしません。だから、そんな人格からハナ歌がそっち方面だった、ってコトがビックリなんざます)
で、それに気付いてガクゼンとしつつも、ヴォーカリーズって曲こそ、実に「クラシック的な」、つまり「ニンゲンの声も楽器の一種である」扱いの極北なのではないかと。

そこから思念は(雑念だ、との声あり)「歌」というもの、「曲」というものの「大洋」に乗り出すワケでございます。
つまり、歌詞というカタチでの「言葉」を必要とする音楽と、一方、言葉を拒否する、あるいは必要としない(ヴォーカリーズのように、人声が入っていても、そこに「詞」が無いもの)純粋に「音」の動きだけを重視する音楽とがあるのではないでしょうか?
皆様もご存知だと思われる「四季」(あるいは、アルビノーニのアダージョでもいいです)。あれに歌詞をつけて歌う、なんてのはムリじゃあないにしても、「そんなコトが出来るってのはある種の無神経さを必要とする」と思うんですよ。特にそれが日本語だったら、イヤでも耳から入って来る言葉が引きずってくる「意味」たちで、必ずや散逸してしまうモノがありますから。
どうも、歌詞なんてつけない、つまりメロディの動きのみで表現しうる「美」が存在するんじゃないでしょか?いえいえ、そちらのほーがいいとか、どっちが上だ、とかゆうハナシじゃあなくて。

ところで、白鳥英美子が「G線上のアリア」や、パッヘルベルの「カノン」に歌詞をつけて歌っているのですが、聴いたコトありますか?ま、日本語ではないせいか、一種のヴォーカリーズと捉えることも出来ます。でもね、あれ、英語圏のヒトが聴いたらどうなんでしょ?
「うぇ〜っ!なんじゃこりゃあ!!」って吹き出したりするかも。

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