Sweet Black Angel / Robert Nighthawk

03-07-22
あまりにも有名なこの曲ですが、Lucile Bogan のヒットを、Tampa Red 経由でモノにした作品と言えるでしょう。
その、Tampa Red 由来とも言われる独特なスライドは、優雅さをたたえて静かに流れつつも、ややウェットな情念を滲み出させていますが、けっして押しつけがましくはないし、彼ならでは、の距離感みたいなものが快いのでございます。
そして、誰かのため、というより、自分のために歌っているかのような収斂するヴォーカル。たしかにモダーン・ブルースの持つ洗練された浸透力みたいなものには欠けていますが、逆に、「それ故に」醸し出される「軽い情感」がリアル・サイズの人間像を浮かび上がらせてくれるような気がします。なんて言うとホメすぎかな?

Robert Lee McCollum は、1909年の11月30日、Arkansas 州の Helena で生まれています。1964年のインタビューで彼は、Mother and dad and sister and brother の全員が音楽を演奏した、と言っています。特にギターを弾いていた兄は、すべての面で面倒を見てくれた、と。

1928年には Mary Griffen と「最初の」結婚をしてます。そこで生まれた二人の子供の上の方 Sam(下の子は Ludie )は後にドラマー Sam Carr として有名になるのでございますよ。
まだ4、5才の彼はナイトホークのギグにしょっちゅう連れていかれたそうで、ステージの前あたりでずっと踊ってたとか。そして '40年代に入ると、父のバンドで時に運転手として、時にはベーシストとして働いていたようです。
Robert Nighthawkは、'20年代後半(あるいは '30年代か?)に Mississippi で会った Houston Stackhouse からギターを習ったようですが、 Houston Stackhouse によれば、ふたりは「いとこ」の間柄だそう。昼は一緒に農場で働き、夜はパーテイなどで演奏をしつつギターを習ってたんでしょか?
そのふたりが行動を別にしたのが1932年で、ナイトホークは Chicago に。
1933年には Laura Dukes( "Little Laura" あるいは "Little Bit" という芸名)という女性シンガーと組んでいます。ナイトホークは彼女にウクレレやバンジョーを教えてくれたそうです。4弦のほーがラクだろう、って。この時期は主に Memphis にいたらしく、そこで John Estes や Yank Rachell、 Memphis Slim、 Big Bill Broonzy、 Sonny Boy Williamson、そして Big Joe Williams とも出会っているようですね。
ところが、彼はちとヤバいことしちゃって St. Louis に逃げ出すハメになっちゃいます。名前も母方の苗字をいただいて Robert Lee McCoy と変えて。Louisiana でトラブル(発砲事件を起こしてたみたい!)に巻き込まれて、のことだったようですが、真相は不明です。
戦前の録音がその名義で行われてるのは、そんな理由だったのねん。1936年から1939年あたりは St. Louis を拠点に Chicago にまで出向いたりしてたようです。
その彼が Chicago に移ったのは1940年。あ、1937年の曲 Prowling Night Hawk から取って名前を Robert Nighthawk に変えたみたい。

マイク・ブルームフィールドが行ったインタビューによれば、一般に信じられているように、Tampa Red からそのスライドを受け継いだ、というのは「違う」んだそうです。Tampa Red のスライド自体は好きだったけど、それをなぞったプレイはしていない、アイデアのレヴェルだ、と主張してます。
1942年には Helena の KFFAの番組(「Bright Star Flour Hour」金曜夜)出演枠をゲット。経済的にも安定したみたいだけど、仲間とカネにまつわる感情的な対立もあったみたいですね。
やがて Earl Hooker や Ike Turner なんかとの付き合い(特に Ike からはオンナを奪ったりもしてたみたい・・・1947年に結婚した Hazel Momon、彼のバンドのシンガーだった)もあるんだけど、エピソードぜ〜んぶ追っかけてたら「日記」のワクにゃあ収まりきれないんで(って、もうとっくに次の日になっちゃってるよ!)ハショるけど、1948年から吹き込んだ Aristocrat(後の CHESS ねん)の録音に、この Sweet Black Angel が含まれる、ってワケ。

Robert McCollum は、1967年11月5日、Helena の病院で心疾患(鬱血性の心不全であった、とも言われています)のために死亡し、1983年には「殿堂入り」を果たし、2000年10月 6日には Helena の Magnolia 墓地に記念碑も置かれたのですが、その墓地内で実際に埋葬された場所がどこなのかは、いまだに不明のままです。



TOUR de FRANCE 90e:第15ステージ(7/21: Bagneres-de-Bigorre 〜 Luz-Ardiden: altitude,+3500m!!)159.5kmでは、Lance Armstrong(USP)が、今年のツールでは初のステージ優勝で、二位の Jan Ullrich(TBI)に1分以上の差をつけることに成功しています。

でも、きょうのウルリッヒはひとあじ違うのだ。Iban Mayo(EUS)とともに先を急いでいたアームストロングが、なんとコース・サイドの観客の手にしていたノヴェルティ・バッグにハンドルを引っ掛けて転倒!巻き込まれてマヨも落車したんですが、この時ウルリッヒは「チャンス!」とばかり、先行する、なんてことせずに、アームストロングとマヨがリカヴァリーするのを「待って」いたのです。
これは以前下りのコーナーでウルリッヒがとっちらかったとき、巻き込まれたアームストロングがウルリッヒがリカヴァリーするのを待ってくれたことに対する「お返し」だったのかもしれませんが、それにしても、やるじゃねえかウルリッヒ!

そうなると、Lance Armstrongも「それに応える」かのように鬼神の如き(?)ダンシング(つーても、踊るんちゃうで!サドルから腰を浮かし、レーサーを左右に振るようにしてパワーを込める「立ち漕ぎ」みたいなもんざます)を見せて登る登る!つまり、ウルリッヒの温情でトップをキープ出来た、なんて言われないよう、「明らかな」差をつけることが必要だったのでしょう。
結果、2位以下に 40秒以上の差をつけてゴールに飛び込んだんですからたいしたもんでげす。ウルリッヒはこれで1分以上の差を縮めなきゃいけないワケで、第19ステージ(Pornic - Nantes/49km)の個人タイム・トライアルで「逆転」出来るかな?

次は Pau - Bayonneの197.5kmです。



今日はまた、雲ひとつ見当たらない快晴になりました。
でも気温は24度くらいでしょか?とっても気持のいい日です。こないだの土日がこんなだったら良かったのにねえ。なんて思ってたら夕方が近付くにつれ、またまた薄い雲が一面に広がっちゃった。

ファッツはんの板で、Night Lifeなんかどーじゃろ?と出してみたら、ファッツはん、オブリとソロやってくれそう!あ、いけね、カンジンの勧進元(ハイ、駄ジャレです。すんません)MACさんに歌ってもいいすか?って尋いてないや。もしMACさんが「OK」だったら、他にも「まともな(?)」ブルース進行のブーギとか2、3曲お願いしてみよっかなー?
Night Life みたくコード進行ちゃうのは、やっぱベース、りっきーさんに「お願い」かな?ドラムは誰でもいい(?)んですが、ロッド使ってくれるといいなあ。

う?それとは別に「チャンジーズ」もやるのかなあ?なんか、o.j が「もしかすっと」来れるかもしんない、っつー状況のようで、そーなると準備しとけばいーのか?ちょいハンダンに迷うな〜。
案外、寿家の三次会から参加!ってえことになるかもねん。したらアコ?へへへ、チャンジーズでやろっかな?って曲、ちょいややこしーの考えてたけど、三次会あたりで、となると、コードこみいってるのはムリかも。
逆に o.jが「Wonderful Tonight」とか行くと、部分的に記憶アヤシいとこあるから、カンニング・ペーパー用意しとかにゃね。あ、Night Life のファッツはんじゃないけど、コードがイマイチなときゃ、オブリで乗り切るっつー手があるなあ。うぷぷ
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