Kiddio / Brook Benton

03-07-29
Kiddeo と言えばアット〜テキに有名なのは、John Littlejohn の Chicago Blues Stars に収録されたテイクで、他にもブレイクダウンのインスト・ヴァージョンも知られておりますよね。
がっ!(とリキむこともないんですが)ここで曲名を見ていただけば判る通り(え?ぜんぜん気付かなかった?ガックシ・・・ )Kiddeo ではなく Kiddio なのよねん。
そ、ここで取り上げとるのは、その「オリジナル」の Brook Benton の Kiddio なのじゃ。

Brook Benton は、Otis Rush や Amos Garrett も歌っている、あの Rainy Night In Georgia のヒットで良く知られているのですが、1960年代の初頭には、MERCURY でヒットをトバし、人気もあったソウル・シンガーで、そして同時に、幾多のヒットを提供した才能あるソングライターでもあったのです。
その彼が生まれたのは、1931 年 9 月19日、South Carolina 州 Camden の Benjamin Franklin Peay でした。
子供のコロから朝、牛乳を配達するかたわら Camden Jubilee Singers のメンバーとしてゴスペルを歌っており、さらに1948 年、彼がまだ17才の時にはすでに曲を作っていたらしく、それを「売る」ために、New York にまで出かけていたようです。
一方、ゴスペル・シンガーとしては Bill Langford’s Spiritual Singers や、Golden Gate Quartet、Jerusalem Stars などを経験しますが、South Carolina に戻り、次のチャンスを待つ間トラックの運転手をしていたとか。
そして R&B グループの the Sandmen に加わり、飛躍を求めて再度、New York へ。

そこで地道にあっちこちにデモ・レコードを持ち込み、( Clyde Otis との共作で)ついに1953年、自己名義の吹き込みを OKEH に果たしています。彼単独では EPIC と契約した、A Million Miles From Nowhere( Vik )がマイナーながら最初のヒットとなりました。
続いて Clyde Otis とアレンジャーの Belford Hendricks とともに Mercury に行き、そこで大きな成功をおさめることに。
1959 年に訪れた彼のブレークは It’s Just A Matter Of Time と、そのカップリング曲 Endlessly の両面ヒットです。 It’s Just A Matter Of Time は 1959 年 3 月にポップ・チャートの 3 位まで上がり、B 面も同年12月には12位まで上昇し、1959 年から 1964 年までの彼の 23 曲にも及ぶトップ・フォーティ・ヒット(つまり、40 位以内にまで上がった曲。ソロ、デュオの両方)の先頭を切ったのです。
翌 1960 年、またひとつ彼のナンバーがリリースされました。8 月22日、ビルボードのヒット・チャートに初登場 31 位で姿を現したその曲は、以後 27→17→8→7→8→11→10→12→13→22→25→26 位と、実に 13 週にわたってチャートに名を連ねていたのです。最高 7 位にまで昇った「この」曲こそ、ここで採り上げた Kiddio なのです。

お馴染みのブラスのリフは入りますが、そのバックには頼り無いストリングスが「さえずり」、リズム・セクションは「借りて来た猫」みたいにめちゃめちゃ控えめ。
ヴォーカルもやたらマイルドで、あろうことか(?)バックには柔らか〜い女性コーラスまで入っておるじゃあないの!ジョン・リトルジョンのガッシガッシと迫ってくるよな暑苦しい(?)までの迫力とはエラい違いですねえ。
まだこっちは余裕かましてる感じでしょか?しかしまあ、聴けば聴くほど、ジョン君、意外にも原曲をかなり忠実に活かしてるのに気付きます。このトボけたリズムをガッカガッカのハードなブーギに換えて、ストリングスと女性コーラスはヨサンのカンケーで省略(あ、ホントかどうか判りませんよ。あくまでも、そーだったりしち、ってえウケ狙いのヨタですからねん)すると、ホラ Kiddeo の出来上がり!・・・ 実際にはブレイクダウンもそのまま活かしてた「あの」ギターのリフなんかは彼のオリジナルでしょから、コトはそーカンタンじゃないのはあたりまえなんですが。

さて、と。ここでコンポンテキなギモンを呈されるお方もおられるのではないでしょか?
Brook Benton ってブルースなの?って。まあ、シビアに言えば「ちゃう!」が正解でげしょうね。ブルースも属するブラック・ミュージックのフィールドを縦横に走査する音楽ではあるが確かに狭義の「ブルース」と言い切るのはテキセツではない、と。
ただ、彼の音楽にはゴスペルもブルースも血液中の血小板のように(判りにくいタトエやね?)遍在する、とでも申し上げときましょうか?
ブルースかブルースでないか?なんてことより(だって分類学者じゃないんでげすからねえ)「なんか、いいなあ」ってえ感覚を大事にするほうがいいんじゃない?

さて、その後のブルック・ベントンは、ダイナ・ワシントンとのデュエットで発売したミリオン・セラーの Baby( You’ve Got What It Takes )、そして A Rockin’ Good Way( To Mess Around And Fall In Love )が、1960 年に R&B チャートのトップを記録しています。(ついでながらダイナ・ワシントンって、1963 年にわずか 39 才で過度の「飲酒」と錠剤の過剰服用が原因で死んじゃったのねん。みなさま、お気をつけあそばせ)

彼は他のアーティストにも曲を提供してて、the Diamonds の The Stroll、Nat "King" Cole の Looking Back、Clyde McPhatter の A Lover’s Question などはその成功例です。
しかしその好調も 1963 年あたりから緩やかな下降線を辿り始め、さらに、ビートルズの出現がレコード・ビジネスの状況を一変させてさせてしまいました。
彼は RCA から REPRISE、さらに COTILLION( ATLANTIC の子会社)と、次々とレーベルを渡り歩くようになります。

やがて雌伏の後、1970 年には Tony Jo White の作になる名曲 Rainy Night In Georgia で輝かしい復帰を果たしました。
1988 年 4 月 9 日、脊椎の髄膜炎に肺炎の合併症で New York で死亡。( Tom Simon による)

Kiddeo words from Album of John Littlejohn

ベイビー、言ったよな、俺がどう感じてるか
たったヒトコトでこいつはおじゃんになっちまう
俺の「ハートのクィーン」になってくれよ
お前の愛ってのをこっちにもまわしてくれ
「イエス」と言ってくれ、「ノー」はなしだ
キディオ、いい気分にしてくれよ

たぶん時間のムダかもしんねえ
お前を忘れることは出来やしない
俺をいい気分にすることだって出来たんだ
お前がそうしようと思いさえすりゃな
「イエス」と言ってくれ、「ノー」はなしだ
キディオ、いい気分にしてくれよ

お前にゃ16通も手紙を書いて、電話口に呼び出しても
キディオ、お前のハナすのは天気のことばっかじゃねえか
やってらんねえよ
お手上げだ助けてくれ
がっかりさせるなよ頼むから
キスしてくれ、愛してるなら
態度で教えてくれよ
「イエス」と言ってくれ、「ノー」はなしだ
キディオ、いい気分にしてくれよ

(訳;Othum。John Littlejohn の歌詞カードから。ちょっと原文とはちゃうけど、意味を重視しました。なんちて)

えー、その Kiddio って名前、ガキっぽい、から来てるんでしょか?英語の場合、K で始まる単語は意外と少ないんですよね・・・ま、それがどうした?って言われちゃうと返事に困るんですが。



さて、きょーの夕食、ワタシはナニを作ったでしょー?って板を見ればスグ判るよねー。
いとしのぶぅちゃんが寿家で「牛こま」食べてきた、って言ってて、したら hisae はんまで「牛こま」が美味しいなんぞと言いたれて、トドメはりっきーさんまでがヒトコト!
そ、ネがタンジュンなワタクシのこと、とーぜん某スーパーに「宮崎牛」を買いに行ったのはモチロンでございます。
やや遅くネラって行っただけあって、ちゃんと「安売り」始まってました!うひうひ、これで例の牛焼きライスをやるのじゃあ〜!
タマネギと一緒に炒めて味醂&お醤油で味付けし、軽く白ワインを振ってアルコールっ気がトんだら熱々のライス(そ、平皿に盛るから「ライス」で、ドンブリだったら「ご飯」よん)の上にドシャ!
ってのっけるざんす。
肉が少ない時はちょと味付けを濃ゆいのにしてねん。あ?ジョーシキでしたね。
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