Love Me Darlin’

Hubert Sumlin(Howlin’ Wolf)


03-07-31
ああ、このギターをなんと表現したらいいのだろう?
あくまでもユニークで、しかし独善的ではなく、なんだかとっても人間的な暖かみに溢れ、ユーモラスとシリアスの境界を自由に行き来し、気ままにクイっ!と舞い上がる重心の軽いチョーキングに彩られた世界を。
Change My Way のオーソドックスなブルース・ギター・フレーズもいいけれど、また世評に高い I Walked From Dallas での彼もいいけれど、そして New Crawlin’ King Snake でのトリッキィなリックも捨て難いけれど、さらに Don’t Laugh At Me のコミカルなリフも味があるけれど、それでもやっぱり、なんだかこの Love Me Darlin’ での Hubert Sumlin のギターが一番好きなのです。(いずれも昨日の Change My Way に収録のナンバーからね)

昨日の Hidden Charm ももちろんお気に入りで、実は、そこでも Hubert Sumlin に触れるつもりだったんですが、やはりウルフはそーカンタンに片付くハズもなく、書き始めてみたらかなりのヴォリュームを占めることになってしまいました。
じゃあ、ってんであえて Hubert Sumlin には深入りせずに、今日にまわしたのでございますよん。で、ウルフ&サムリンでは Hidden Charm で良いのですが、せっかく Hubert Sumlin を採り上げる以上、彼のギターだけ(あ、もちろんウルフが歌ってますからインストじゃありません)で選ぶとすりゃあコレ!
なんといっても、このキュイッ!と舞い上がるクイックなチョーキングが「いい」んですよねえ。某有名サイトの主宰者は「勢いに任せたヘタウマギター」なんて解説してましたが、まあ、そう言われちゃいそな「破天荒」さはありますよね、確かに。(にしても、この「ヘタウマ」てな安直な解説は「いかがなものか?」と思いますが)

Hubert Sumlin は1931年の11月16日、13人の子供たちの末っ子として、Mississippi 州の Greenwood で生まれ、Arkansas 州 Hughes で育っています(一部、こちらを出生地とする資料もあるようですが)。その彼が初めてギターを手にしたのは 8才の時で、彼の母が一週間働いた給料を全部注ぎ込んで買ってくれたものでした。
バプティスト教会で教会の執事とともに編曲を行ったところから彼の音楽上の経歴が始まったようで、それがまた彼にとっての音楽の学校でもあったようです。
彼にとっての最初のギグは、Pat Hare( 1930年12月20日、Arkansas 州 Cherry Valley 生まれ。1948年、Howlin’ Wolf の最初のバンド・メンバー。1952年 SUN の専属に。Junior Parker や James Cotton をサポート。やがて Chicago に移りマディのバンドのギタリストとなるが酒浸りが原因で1960年に解雇され、1963年、殺人罪で逮捕され終身刑となり1980年9月26日獄中で死亡)が見つからなかった時の代役で、ハープの James Cotton のバックでギターを弾いたことだそうです。コットンは「まだ若いが、ちゃんと弾ける」とひとに薦められ、聴きに行ってみたところ、音では「 Pat Hare が帰って来てるみたいだった」とか。
これがコットンとサムリンの永年にわたる友情の始まりであり、サムリンの母の許しを得た上でふたりはジューク・ジョイントなどに出演し始めたようです。やがて二人ともシカゴでもその名を知られるようになり、またともにウルフとマディに関わりを持つこととなります。そしてモチロン、ウルフとの結びつきは、ブルース界での彼の名声を確立したワケです。

さて、一方、本人の回想によれば、ウルフとの出会いは、彼らの作り上げたブルース同様に伝説的なものです。
わずか11才の時、Hubert は地元のジューク・ジョイントにもぐり込み、バンドの演奏を聴こうとしました。当然、彼はそこから蹴り出されるのですが、演奏しているバンドの真後ろに窓があるのに気付き、そこでコカ・コーラのケースを積み上げて中を覗けるようにしたのですが、なんと曲の真っ最中にケースが崩れ、Hubert は窓を破ってジューク・ジョイントの内側、演奏のただ中に転がり込んでしまったそうです。
おそらくウルフはその前に店の中からつまみ出されてゆく彼を見ていて覚えてたんじゃないでしょか?
「目を上げたらウルフが俺を見下ろしてて、『構わん、いさしてやれ、ボウズに椅子を持って来い!』と命じ、さらに水を一杯飲ませてくれた。そこで俺は座ったまま、ウルフやパット・ヘア、それにジュニア・パーカーを見られたのさ。その上、ウルフはその夜、家まで送って来てくれて、母にあまり叱らないように、と言ってくれたんだ。コイツはただ音楽を聴きたかっただけなんだから、と。」
それからすぐ Sumlin は Memphis でウルフのもとで働き始めるのですが、やがてウルフは彼の母にきちんと面倒を見ることを約束してこの未成年者を Chicago に伴って行く許しを得ています。
その数年後、サムリンがシカゴに行った1954年から、ブルース界の伝説的なパートナーシップが始まったのです。ウルフとサムリンはアメリカ音楽のサウンドを「変革」し、ロックン・ロールを生み出す勢いを加速したとも言えるでしょう。
ただ、一時期(1956年ころ、と言われる)マディのバンドに入った(昨日のウルフについて調べている段階で、英文の資料の中で、マディに「盗まれた」という記述にも遭遇しており、それについてはマディが unfair な行為をした、という解釈が一部にあるようです)ことがあるようで、その辺にシカゴブルースの両巨頭の関係の微妙さがあるのかもしれませんね。

1976年にウルフが死んだ後、彼はしばらく演奏から遠ざかりました。ウルフ無しでの演奏など考えられなかったんでしょね。その彼がブルース・シーンに帰って来たのは1980年代に入ってからで、以来、彼自身のキャリアを積み重ねていきます。
Albert King や Otis Rush などとツアーを組み、世界に出て行っていますが、中でもジミー&スティヴィー・レイ・ヴォーンとの付き合いは親密なもので、彼のギターのストラップは、今は亡き S.R.V.から貰った「あの」音符模様のものになっているそうなんですが・・・

Hubert Sumlin の画像がホームページのトップを飾っているMACさんの「ぶるうすまにあの巣」で確認しようと思ったのですが、ちょうどストラップの角度が悪く、それは確認できませんでした。



弘前の街はいよいよ明日からネブタが始まります。もう何度も言ってますから、皆様もお判りのコトと思いますが、弘前のネブタは全国的に有名な「青森のネブタ」とは「まったく」違います。
ハネないし、「ラッセラ〜」も言いません。
共通するのはタイコのリズムくらいのもんで、それ以外の、たとえば横笛のメロディも、かけ声も運行の仕方も山車(とはホントは言わないんですが・・・ )の形も大違いで、どう見てもカンゼンに別の祭です。
全国からの観光客のみなさまは「迷わず」青森へどうぞ。弘前はそこに住んでいる人たちのための祭ですからねん。

エピちゃん、明日が新しい会社の面接だ、っちゅーことで、ぶぅちゃんと hisae さんから応援のカキコが寄せられています。おふたりとも、自分の面接の時のことを教えてくれました。
このよーなサポートをいただき、エピちゃんもきっとココロ強いコトでしょう。そのアドヴァイスやハゲまし(あ、この書き方だと、最近、某板で盛り上がってた「脱毛です」ネタとまちがえられちゃうかも?)を受けて明日の面接ガンバってきてねん!
permalink No.466

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