Lonely Traveller

Jimmie Lee Robinson


03-08-14
かな〜り昔、Out of Limits とかってゆー番組のテーマ曲のインストって誰が演ってたんだっけ?
確かその曲のサワリ(?)のメロがマンハッタン・トランスファーのトワイライト・ゾーン(だったっけ?)の中にも登場してたよな・・・ なんて、40代以上のオヤジじゃなきゃ判んないよな話題でしたねえ。
え〜、なんでそんなコト急に言い出したか、ってえと、この Lonely Traveller のギター・ソロが一瞬、宇宙にさまよい出そうになっちゃうからなんですよん。
ま、それに加えて、そのコード進行っつーのが、ん〜?これってディック・ディール&デルトーンズとかシャンティーズとかはたまたジ・アストロノウツなんてゆーサーフィン・ミュージックちゃうのん?とツッコマれそな Am-G-F-E っちゅーのの繰り返しなんでございますよ。
だいたいイントロからフザケてますよねー、かってのサザエさんのエンディング・ジングル(?)「ンガココ」みたいな Jimmie Lee Robinson のギターがコードに合わせて落ちてくんですが、Scott Dirks のハープが入ってくるまでは、ん?まるで Walk Don't Run?っちゅーフンイキなんですから。
そしてあまり技巧に走らない(無い?)シンプルなヴォーカルがトツトツと歌ってゆく・・・ しかしまあ、途中で入るこのギター・ソロがまた、なんつーか。ウマいんだかヘタなんだか判断に困るよな独特の「おっとっと」ギターでタップリと幻惑してくださいますよん。ま、こんな曲だと、ハープだってソロとりづらいったらありゃしない、っちゅう感じで同じフレーズ繰り返すだけ、とケッコー苦戦(?)してます。
しゃーないから、バックで Jimmy Lee もスキャットでも入れるべえ、と・・・
マイ・ペースなベースは John Burgin、メゲずにリズムをキープしてんのがドラムの Steve Cushing でございますよん。1992年の8月5日の録音ですから、オリジナル録音からは実に1/3世紀を経ておるのですねえ。(ついでながら、ザンネンですが、オリジナルのほうはまだ聴いたコトがございません)

さて、8/12で採り上げた Billy Boy Arnold と同じように、この Chicago で生まれ(1931年)その後もずっとこの街に腰を落ちつけてきた Jimmy Lee Robinson(ブルース界のピカソだって?なんじゃそりゃ)は、 Halsted Street の家に近い有名な青空マーケットの Maxwell Street で、まだマディが来る前に Big Bill Broonzy や Robert Nighthawk のようにギターを弾き始めています。
彼より 4才年下の Billy Boy Arnold は Maxwell Street にはあまり縁が無かったみたいですが、Jimmy Lee には、とっても大事な場所だったんですね。
彼の曾祖父の Mose Jenkins は奴隷として生まれ water boy として働いて(つーても、その Water Boy ってのがイマイチよく判らないんですが、水のかい出し人足みたいなもんかいのう?)ましたが、奴隷解放後は巡回牧師の御者となったようで、Jimmy Lee はその曾祖父と祖母と一緒に Maxwell Street を歩いたキオクがあるようです。
Mose Jenkins は 91才で1935年に死んでいますから Jimmy Lee はせいぜい 4才になったかどうか?ってとこですが、ま、いわゆる「三つ児のタマシイ・・・」ってヤツですかね。Mose の娘 Celia( Jimmy Lee の祖母ですが)の母は Choctaw インディアンだったそうで、ジミー・リーJimmy Lee にはインディアンの血も 1/8くらい入ってるワケかな。
彼は半分インディアンの血が入った祖母の Celia( Little Mama )と、祖父の Elijah Jackson( Big Daddy )の老夫婦と一緒にいる時間が長かったようですが、両親は Almor Smith と Emma Robinson といって、父のアルマーは建設作業員だったようです。ただ、母のエマには Jack Palmer(共産主義者であり、また 20年代にアメリカ南部のスピリチャル・ソングを一般に紹介したシンガー、Paul Robeson の友人でもあった)という別な男(!)がいて、そちらとの間に生まれた子供、Eddie Lee Robinson という異父兄弟がいます。ややこしいのねん。

1948年には、彼にとって重要な意味を持つ出会いがありました。それは有名な Eddie Taylor で、1952年まで、Chicago のクラブで一緒に演奏したりしてたようです。1952年には福祉事務所の前で会った(!)Freddie King と The Every Hour Blues Boys(こら、そこ!笑わない!)っちゅーのを結成しとります。これも4年間続いてますが、後にフレディー・キングは自分の最初にして最も影響を与えられたギターのセンセだった、と回想してますよ。
その後も彼がギターあるいはベースとして共演した顔ぶれとして Little Walter、Shakey Jake、St.Louis Jimmy、Al Smith( Midnight Special )、Howlin' Wolf、Eddie Taylor、Elmore James、Jimmy Rogers、Sunnyland Slim、Jimmy Reed に Magic Sam と、実に多岐にわたります。たとえば Little Walter では、1957年の Ah'w Baby でリード・ギターを、1958年の The Toddle ではリズム・ギター、おまけに1958年の Confessin the Blues ではベースを弾いていまっせ。

彼自身がバンド・リーダーとなった吹き込みは、おそらく1959年、あるいは1960年と思われる Bandera Records への Lonely Traveller と All My Life(資料によっては、もう一曲あった、としているものもありますが、その曲名などのデータも無く、真相は不明でげす)で、後者などはジョン・メイオールによって '60年代と '80年代の二度にわたってカヴァーされとりますよん。そのヘンも Billy Boy Arnold と共通してますねえ。ただ、この二人の交流ってのは、どの文献でも出てきてないんで、どうも、接点が無かったみたい。

1965年には American Folk Blues Festival の一員としてヨーロッパに渡り、その存在を知られるようになります。
'70年代にはウルフとの仕事なども経験しているのですが、その後、母の死から彼の下降線が始まり、'80年代には、シカゴ教育委員会に雇われた警備員や大工、タクシー運転手などとなって、ほぼシーンから姿を消していたようなもんだったんですが、ジョン・メイオールのカヴァーが「効いた」?のか、'80年代末からは The Ice Cream Men とゆうグループに請われて活動を再開、ついには DELMARK が復活に乗り出し(?)1994年にアルバム Lonely Traveller をリリース(ただしレコーディングは曲データでお判りのよに 1992年)したのでございます。
その後、彼自身のプロデュースで Amina Records に Guns, Gangs and Drugs ( 1996 ) と Maxwell Street Blues ( 1998 ) を、さらに APO Records からは1998年に吹き込んだ Remember Me ( 1998 ) と All My Life ( 2001 ) がリリース。どちらも高い評価を受けたのでありました。

で、忘れちゃならねえのが、彼の Maxwell Street Market 保存運動でしょ。
彼にとっては揺籃の処所であり、音楽の切磋琢磨の場であり、数々の憶い出にあふれるこの場所が取り壊されよう、というときに反対運動に立ち上がり、その活動はマスコミ( Discovery Channel や、新聞では the New York Times、the Chicago Sun-Times に the Chicago Tribune )にも取り上げられています。
しかし彼の 81日間にも及ぶカラダを張った抵抗運動もむなしく、ケッキョクそこはカンゼンにサラ地にされ、the University of Illinois at Chicago( UIC )のキャンパスを拡張するために転用されてしまいました。
そのことを歌ったブルース Maxwell Street Tear Down Blues( 1997 )は、とーぜん Amina の Maxwell Street Blues に収録されています。

晩年の彼は健康にヒジョーに気を遣い、美酒美食にふけることなく、菜食生活と運動の重要性を語ってたそーなんですが、そんなにしてても、サイゴは胃癌で死んじゃったんだから皮肉なもんです。
このとってもユニークなブルースマンが死んだのは 2002年の 7月6日。71才でした。



たぶんガラガラの東京の道路と反比例して、弘前じゃ関東域のナンバーをつけたクルマがやたら増えてますよん。
いつもだったら、「ここ、あんまし美味しくないよね〜」ってお店も他県ナンバーのクルマでパーキングが埋まり、これぞ、年に一度の荒稼ぎってヤツでございましょう。
スーパーの惣菜コーナーには「お盆用オードブル(?)」っちゅー見た目だけの空疎なパックが並び、フダンより二割がた高めの高級和牛のパックも量目をふやして精肉コーナーで待ちうけとりますぞ。
ううむ、トーキョーから帰って来る息子夫婦&その子供たちに「いい」肉を喰わしてやっか?っちゅう心理につけこんどるワケですね?
いやいや、よろしいんじゃないでしょうか?美しきニホンのココロ、でございますよ。
ま、それにつけこむほーは「あまり美しくない」よな気がいたしますが。
この時期、逆にクルマで東京に行ってみたいなあ、とだいぶ前から思ってるんですが、実際にゃあなかなか、ね。
permalink No.480

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