Blues Power

Albert King


03-09-02
いまだに「 Blues 」を日本語でカタカナ表記する際に、ブルー「ズ」と濁るべきだ、と主張するトンチキ・・・ うっぷす、「思い込みのハゲしい」ヒトがいますが、まあ、マチガイ無く、この Albert King の名曲(?)"Blues Power" を聴いたコトが無いんでしょうね。
聴いたコトがある、ってんなら、ギターばっか聴いてたんじゃないの?
ブルー「ズ」を正当化するにゃあ、Albert King はブルースマンではない、あるいは、この音楽はブルースじゃない、or 「この曲は」ブルースじゃないって証明が必要だぜ。さあ、どうする?
フランス語では「当然の」概念として「リエゾンする・しない」ってのがあるんだけど、それ、英語でも次に来る単語のアタマによって、その前につくコトバの語尾が変化します。
Blues'n' Soul なんてえ時には濁って「ブルーズンソウル」になるけど、このタイトルのよーに Blues Power では「濁りまへん」。
したがって「濁るコトもある」のは事実だけど「濁らなければならない」ってのはウソ。

この Blues Power ( Favorite Songs でも採り上げましたが)じゃ、歌詞(っつーより「語り」なんですが)の中で、何度も言い放しの文末に Blues って単語が登場します。
Everybody understand the blues!ってリキ入ったトコだけ「ズ」に「近寄る」けど、その後、日常を淡々と描写してくあたりではカンゼンに「ス」として消えてってるでしょ?
おそらく「外部の」ニンゲンにモッタイつけて、「ええか、お若いの、ブルースっちゅうのはな・・・ 」なんて語る時にリキが入ると濁るんじゃないの?フダン、ニホンって言ってても、演説口調やら右翼チックに「脅し」かける時にゃ「ニッポン!」ってなるのと一緒でしょ。

ま、なにはともあれ、ブルー「ズ」でなきゃ、っていう「どアホ」ってたいて〜ナンか「汚染」されてるよねー。
有名なとこじゃ、某関西ローカルがひところやってたブルース系の番組で、ともかく親のカタキみたく、ブルー「ズ」を連発してた、ってのがあったけど、やはりそれにふさわしく(?)、とかく失笑を買うよな中身でしたが。
また先日、Thee Michelle Gun Elephantのファン・サイト見てたら「ギア・ブルーズ」に触発されたのか「ブルースじゃなくブルーズなのに、みんな、なぜそう言わないんだ!」っちゅー微笑ましーくらいおバカな発言があって、そりゃみんながブルー「ズ」って言わないのは、ブルー「ス」だから、に決まってんじゃん、と笑ってしまいました。コイツもマチガイ無く「 Blues Power 」聴いたコト無えな。

まだまだこれからも季節の替わり目やら、陽気に惑わされて年に 3〜4人はこんなのが出て来るでしょーが、「ズ」説のコンキョがどーあれ、みな一様に「偏向」あそばされておられるよーでございますよん。
ま、なんでもいーから、「ズ」だ、ってゆーんなら、この「 Blues Power 」がブルースじゃない!Albert King はブルースマンじゃない!ってのを「誰もがナットクいくよーに」証明してからにしていただきたいものですね。
あ、あんなのブルースじゃねえ!なんてえのは(ワタクシもしょっちゅー「畏れおおい方々」に対して使ってますが)「ただの主観」ですからダメよん。
そんなコト言ってたら好きなの以外、ブルースマンが殆どいなくなっちまう。

Albert King、本名 Albert Nelson が生まれたのは1923年( alt.1924 )の 4月25日、Mississippi 州の Indianola です。・・・といつもなら始めちゃうとこなんですが、こと Albert King に関しては、あまたの紹介がなされており、いまさらワタクシなんぞが付け加えられるよなエピソードなんてのももはやございませんでしょうから、今回は年表形式にでもしてみましょっか?

1923 ( alt.1924 )4月25( alt.23 )日、Mississippi 州 Indianola で、教会のシンガーだった母から13人の子供たちのひとりとして生まれる。ただし同居していた、歌う他にギターも弾いたという巡回牧師の Will Nelson とは血縁のない継子になる。 Indianola は後に B.B.も暮らしたこともあるデルタ地帯の小村。
1929? それまでのホウキの柄に弦を張った 1弦ギターからシガー・ボックス・ギターに。
1931 一家はArkansas 州の Osceola に移ったようで、そこの農園で育っています。継父が教会で弾くギターを聴き、Blind Lemon Jefferson や Lonnie Johnson のレコードからも影響を受けて自作ギターで練習していたようです。
1941 ( alt.1942 )彼にとって最初のホンモノのギターを 1$25c で友人から譲り受ける。たぶん、その弦を張り替える、なんてコトをしてないと思うんで、彼の右利き用の弦のセッティングをそのまま使うスタイルはここで「決定的」になったんじゃないかと・・・
1940's Arkansas 州 West Memphis で時おり見掛ける Robert Nighthawk や Elmore James に魅惑される。また、このころの彼は建設工事現場でのブルドーザーの運転手をしてたのですが、1940年代の末期あたりに、St.Louis 経由で Indiana 州の Gary に移っています。そこでは Jimmy Reed や John Brim とも共演したそうです。(それは Chicago に来てからだ、とする説もあります。また、Gary に移る前に、Yancy's Band ってのと the Groove Boys ってバンドで活動していた、とする資料あり)
1953 Chicago に出て来て、Al Benson の Parrot label に Walking From Door to Door b/w Lonesome in My Bed と、Bad Luck Blues b/w Be On Your Merry Way を吹き込み、後者はこの年リリースされてそこそこは売れたようだけど、彼に廻ってきたおカネは「ちょっぴり」だけだったみたいです(14$!)。それでアタマに来たのか、Parrot には「お別れ」
1956 St.Louis に戻る。当時の St. Louis はブルースが盛んで、Ike Turner や Little Milton と人気を争ったそうです。Bobbin と King labels と契約し吹き込みを開始。
この St. Louis で Gibson Flying V を使い始めてるよーですが、そのギターを「 Lucy 」と命名しております。
彼のギターのチューニングは、かなり変わってて、太いほーから細いほーに向かって、C-F-C-F-A-D ってえセッティングです。ゲージは細いほーから「.009-.012-.024-.028w-.038w-.050w」。
Lucy じゃないほは Gibson Flying V '58 Korina body ね(なんて、そゆヘンな情報はあるのに、正確にはいつからフライングVを、どゆいきさつで使い始めたのか?っちゅーキホンテキな情報は見当たらないのねん。フライングVのプロト・タイプが出たのが1957年ですから、それ以降にゃ決まってるんですが。また「ルーシー」はもっと後に Dan Erlewine によるカスタムだ、っちゅう説もあります)。ついでながらアンプはってえと Acoustic( solid state )と Roland JC-120 だそうですよん。
1959-1962 R&B チャートで 14位まで上った Don't Throw Your Love on Me So Strong(1961)を含む数々のシングルがリリースされます。
196? ジャズ・シンガーの Leo Gooden のレーベル Coun-Tree に入りますが、Albert King にばかり注目が集まるのを妬んだ Leo に追い出される。
1966 Memphis に移り、「成り上がり」の STAX と契約。ここで彼はハウス・バンド、Booker T & The MG's のバッキングを得て Laundromat Blues を始めとする数々のナンバーを送り出す。
1967 Tommy McClennan のナンバーをアレンジした Crosscut Saw、それに Born Under A Bad Sign をリリース。さらにシングルをまとめた彼の初 LP Born Under a Bad Sign が STAX からリリースされる。また、この中には As The Years Go Passing By が収録されていますが、クラプトンは「レイラ」の特徴的なリフをこの曲からストレートに「いただいた」コトを認めました。
1968 2月1日、San Francisco の新しいホール、The Fillmore Auditorium のオープニングに Jimi Hendrix、メイオールとともに出演。同年、もいちどライヴを行い、その模様を収録。そして Live Wire / Blues Power が発売される!
なお、この時のライヴの別の曜日の録音が後年(1990年代になってから) 2枚発売されてます。
1969 なんでか St. Louis Symphony というオーケストラと共演(!)で、おそらくこの年、Othum は、初めてホンモノのブルースのレコードとして Blues Power のシングルを買い、ショーゲキを受ける。Hank Marvin から Albert King へ、の一大転換が訪れたのでありますよ。
1974 STAX の経営難→倒産により、彼は以後 Tomato、Utopia などと変わって行く。これ以降ファンク系のビートやニューオーリンズ系のテイストを採り入れて、それなりに存在感のあるアルバムを出したりしてますが、1980年代に入ると健康面に陰りがあって、以前ほど活動は出来なくなります。
1983 には STAX を買収した Fantasy label と契約、以後グラミー賞候補となったり、「殿堂」入りもはたす。
1992 12月19日、Los Angels でのコンサートの 2日後に Memphis の自宅で心臓発作で死亡しました。彼の葬儀のあと、遺体は伝統的なニューオーリンズ・スタイルの Memphis Horns による When The Saints Go Marching In の演奏に守られて偉大なるミシシッピー川を渡り、彼が子供時代を過ごした場所にほど近い Arkansas 州 Edmondson の the Paradise Gardens Cemetery に葬られたのでした。

おそらく、ブルースマンの間での評価よりも、非黒人の、ブルース指向のロック系ギタリストたちによって、熱烈に支持され、模倣され、愛された Albert King。そのためか、ややマニアからは軽んじられるケースもあるようですが、最後までホンキでギターを弾いていた Albert King。その特徴的なクイックなチョーキングのために、マネするのもアキラメた Albert King。でも、ワタシのギターを「大きく」ブルースの方向に導いてくれた「恩人」でございます。
あの時 Blues Power に出逢っていなければ、今のワタシは無い(って、ホントは彼だけじゃなく聴いた音楽ゼンブがそーなんすけどね)っちゅー「ターニング・ポイント」として忘れられない存在です。
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