Big Legged Woman

Freddie King


03-09-03
かって Cavern Blues Bandで、メンバーのひとりがこれを歌いたいってゆーんで、レオン・ラッセルの弾く特徴的な左手のパターンだけでもピアノで弾いてやろう、と当時所有していたKORGのキーボードでストリングスなんかの通奏和音用に使ってたヤツ(なんか「〜アンサンブル」とかって名前だったような・・・ )でピアノ選んでやってみたんですが、そいつ、キーが高いぬかしよるんですわ。一音下げてくんない?って、あんた・・・
オリジナルは Cからのブルース進行なんですが主音から独特のパターンで上がってくのを一音下げたら「あの」 B♭やおまへんか!
モチロン当時のアナログのキーボード(シンセですらおまへん)ゆえ、キー・トランスポーズなんちゅう気の利いたモンがついてるワケもなく、悪戦苦闘して、それでもなんとかパターン覚えましたが、うん、ワタシの黒鍵アレルギーの原因はこれだな。

ま、冗談はともかく、この曲、そーまでして「やってみたい」と思わせる魅力がありますよね。とってもクセの強い仕上がりなんですが(あ、それはこのアルバム Texas Cannoball Shelter BT-5175 ─ CDでは Right Stuff 7243-8-53867-2-5 ゼンブについて言えるんだけど)、それがまた、なかなかウキウキさしてくれる(ニューオーリンズ系とはちょとちゃう)独特の「ノリ」を見せてくれます。
そのインテンシティのあるバックに乗せて Freddie Kingのギターが軽やかに「歌う」んですから、実に「キモチ良さそ!」なのでございますよん。
あ、でもバックはケッコーたいへんなんですよ、やってみるとこれが。

まずベースは、ピアノの左手に呼応して「シンクロ」しなきゃなんない。
リズム感が良くないとねー、と言うのはカンタンですが、コトはそーシンプルじゃないんですよ。いわゆる「リズム感がいい」ことのほかにもひとつ重要なファクターがあって、それは「右手」。ピックを使ってくれたらいいんですが、カッコつけて指で弾いたりすると、たとえカラダが正確にリズムとれてても、「必ず」指弾きではタイム・ラグが出ます。だから、それを見越して弾くタイミングを前にズラさないと、出てくる音がオン・タイムにならないんですよ。
ホントにウマいベーシストは「それ」が身についてますからちゃんと合うんですが、バンド全体の音量が上がって、自分の音があまりよく聞こえない状態になると、ついカラダが「ノリ」に合わせちゃうんで「音」が遅れ始めちゃうんですよね〜。
そこらピアノの左手もいっしょですが、電子発振系(つまりアクション機構が無い)だとタイム・ラグがあまり無いんでシロート(ワシのことね)でもなんとかなる、と。

さて、でもホントにタイヘンなんはドラムなんですよ。
ま、ウソだと思ったらこれ再生して、一緒に叩いてみると判ります。
一般的な細かい刻みのハイハット・ワークにオフ・ビートでスネアが絡む(よーに聞こえる)んですが、やややっ!それとは「独立した」リズムでハイハット・オープンが入るじゃないのっ!
うう、神ワザか?・・・ とここまではフツーの「ステレオ」で聴いた場合でございます。
ここでヘッド・フォーンによるチェックを行ってみますってえと、「なんじゃこりゃあ〜っ!」右寄りでクローズド・ハイハットとスネアが「継続」してるのに、ところどころトップ・シンバルと思われるレガートやハイハット・オープンが左寄りで「重なる!」のでございます。イエ〜ス、多重じゃなく、Chuck Blackwell と Jim Gordon の「ダブル・ドラム(左右どっちが誰なのか?は尋かないでくんろ)」なのですじゃ。ズルい!
当時のドラマー、安在にゃんた龍郎(現、「鬼ころし」)はかなりスゴ腕だったんでそーとー肉薄できましたが、今じゃあ、まともに叩けるドラマーひとりだって揃わないってゆーのに、二人だなんて、そりゃもう「ご冗談を」でございます。
それでもやっぱり、この曲、タマにやりたくなりますねえ。

Freddie King は、テキサス州の Gilmer で、1934年の 9月3日、Ella May King と J.T. Christian の間に生まれています。そして 6才になったとき、母とその兄弟である Leon がカントリー・ブルースを教え始めました。初期には Lightnin Hopkins と Louis Jordan がお気に入りだったそうです。
彼の最初のギターは Silvertone のアコでしたが、気に入っていたのは自分で働いて「やっと」買った、という Roy Roger のアコースティックだそうです。
彼の母の Ella は Ben Turner と結婚しており、Ella の二人の兄弟、Felix と Willie King が先に移っていった Chicago に一家で移ろうとしましたが、父の J.T.は彼が Texas で高校を終るように主張し、Ella と協議の上、卒業までは残ることで合意しています。ケッキョク家族は1949年の秋(だってアメリカは夏が学校の年度替わりなんだよ〜ん)、彼の卒業を待って Chicago に移りました。

Chicago ではサウスサイドで暮らし、数々のブルース・パフォーマンスに触れたようです。ある時、ダチとクラブにもぐり込めるか「賭け」をして、潜入にはミゴト成功。でも演奏しててついに見つかり、経営者に叩き出されそなトコを救ったのが誰あろう、その時に出演していたハウリン・ウルフ!「そいつはウチのヤツだ」ってね。よっ大統領!
演奏を見てたウルフはアドヴァイスもしてくれたとかで、この出会いは大きかったようですね。
そっからはマディ、Eddie Taylor、Jimmy Rogers、Little Walter などとの交流に入っていってます。Eddie Taylor は彼にメタルのフィンガー・ピックと樹脂製のサム・ピックの使い方を教えたとか。
1952年には Texas 出身の Jessie Burnett と結婚しました。基本的には、昼、製鉄所で働き、夜はギグの生活でしたが、時にはレコーディング・セッションにも参加しています。
またウェスト・サイドのタヴァーンに出演するチャンスを得て結成したのが先日の Jimmy Lee Robinson と、ドラムの Sonny Scott で組んだ "The Every Hour Blues Boys" でございますよん。
1953 年には Parrot Label に吹き込み。1956年ころ(?)にはローカルなレーベルだった El-Bee に Margaret Whitfield との「デュエット」で Country Boy / Thats What You Think を吹き込み。
1957年には Memphis Slim や Magic Sam とも交流、Cobra Label でのマジック・サムにも参加(ただし無記名で)してるみたい。
1959 年に Freddie King は CHESS Records にはねつけられてますが(二度目?)、そのかわり、King / Federal label の表看板、ピアニストの Sonny Thompson に出会い、これが Hide Away に代表される、あのインストのヒットによる黄金期をもたらすことになるのです。
1960年、Syd Nathan の King / Federal Label と契約が成立しました。Syd Nathan は当時としてはフェアなほうの経営者だったようで、他にも Albert King、Johnny "Guitar" Watson、Memphis Slim、John Lee Hooker などを抱えていたようです。録音はすべて Ohio 州の Cincinnati で行われ、そこでプレスされ発送されたのです。
Syd Nathan の「すべてを支配する」やり方は、金銭的にはともかく、やや窮屈だったことでしょう。なんたって Freddie King にカントリー・チューンやボサ・ノヴァ、さらにサーフィン・ミュージックまで演奏させようとしたらしいですから。

この時期の King レーベルでの楽曲は殆どが Sonny Thompson との合作で、そうして生まれた最初のシングル Have you ever loved a woman / Hide Away( alt.B side of his second King single, "I Love the Woman")は R&B チャートでの両面ヒットとなりましたが、B面の Hide Away は、1961年、ブルース・アーティストによる初の「ポップ・チャートのトップ 40」入り(29位)を果たした曲となりました( R&B チャートの 5位)。
Syd Nathan がこれを見逃すハズはなく、そのインストだけを集めたアルバムを発売しています。おそらく、この時期の Freddie King は、他の誰よりも「売れて」いた!
1961年には Freddy King Sings King Records 762 と Lets Hide Away and Dance Away with Freddy king King Records 773。
1962年、Freddy King, Lulu Reed & Sonny Thompson, Two Boys and a Girl King Records 777。
1963年、Bossa Nova and the Blues King Records 821 とFreddy King goes Surfin' overdubbed crowd noise 856。
1965年、Bonanza of Insrumentals 928、Freddie King Sings Again 931。
当然、この時期の乱作インストはブルース・ファンにはあまりヒョーバンが「よろしくない」よーなのですが、逆にギター・フリークが面白がってくれたりしてるようで。

これらのセールスによって「全国区(?)」となった Freddie King は各地をツアーして、さらに知名度を高めていったのですが、カネに不自由しなくなったせいか、ギャンブルに手を出し、朝帰りもしょっちゅうだったようで、それにキレた(?)妻の Jessie は、6人の子供全部を連れて Texas 州 Dallas に行ってしまいます。そして Syd Nathan は彼女の主張を認め、Freddie King に支払うハズだったロイヤリティーの中から 2,000$ を彼女に送金しました。これには参ったのか、1963年の春、悪所通いから足を洗い、妻子のいる Dallas へ移っています。その彼の King との契約は1966年で解消されました。

その後、全国的なツアーもしていますが、同年、「あの」 Clarence "Gatemouth" Brown 率いるハウス・バンドがバックを務める R&B 番組「The!!!Beat」に出演し、それが Atlantic Records の King Curtis の注意を惹きます。そして1968年には Atlantic Records の子会社、Cotillion Records と契約が成立し、Freddie king is a Blues masterMy Feeling for the Blues の二枚のアルバムがリリースされています。
ただ、この時期、彼はヨーロッパ・ツアーも行っていますが、特にイギリスにおいて、多くのロック系ミュージシャンに自分が影響を与えていることに気付きました。1969年に、彼は白人の「反体制的な」若者と言ってよい Jack Calmes を自分のマネージャーに据えています。
1969年の Texas Pop Festival には Led Zeppelin、Sly and the family stone、Ten years After、B.B. King などとともに出演しているのですが、マネージャーの Jack Calmes によれば、ツエッペリンのメンバーは Freddie King の演奏を「口を開けて聴いていた」そうですが、ま、それは多少ホラも混じってるかも?

その Jack Calmes は Leon Russell の新しいレーベル、Shelter Records との契約をセッティング。レオン・ラッセルはシカゴの Chess Records studio で録音したアルバム Getting Ready SW8905(1971)をリリース。さらに1972年の 2月2〜4日には Los Angels の Skyhill studios で、ベース Donald "Duck" Dunn、ドラム Al Jacksonで、I'd Rather Be Blind(あれとはちゃうよん。こっちはラッセルが作った曲)、Can't Trust Your Neighbor、You Were Wrong( Z.Z.Hill )、「How Many More Years(もちろんウルフ!)、Ain't No Sunshine に Elmore の The Sky Is Crying をレコーディング、そのほぼ三週間後の 2月26&27日には Memphis の Ardent studios で、John Gallie のオルガン、Carl Radle のベース、Chuck Blackwell と Jim Gordon のドラムで Lowdown Lodi(そ!C.C.R.の曲ですよん)、Reconsider Baby(もー説明は不要でしょ)、そして今日のブルースとなった Big Legged Woman( Israel Tolbert )と Me And My Guitar を録音し The Texas Cannonball SW8913(1972)としてリリースしています(他の共通メンバーは、もちろん Leon Russell のピアノと Don Preston のセカンド・ギターね)。
1973年には Shelter での最後のアルバム Woman Across The River SW8921を発売。
続いてクラプトンのレーベル RSO と契約し、Burglar SO4803(1974)、Freddie King Larger Than Life SO4811(1975)、Freddie King 1934-1976 Polydor/Polygram Records 831817-2(1976)の三枚のアルバムがリリースされています。

およそ年間に 300日にも及ぶ強行スケジュールのツアー日程が原因だったのか、彼は健康を害し、1976年の12月28日、膵臓の障害や潰瘍などの合併症により死亡しました。
死後 25年経った1993年、当時の Texas 州知事、Ann Richards は 9月3日を「Freddie King Day」と制定しています。




もーすぐ公開セッションですねえ。ワタクシも久しぶりのトーキョーでございますよん。
前から欲しいと思ってたサンバーストのストラトもりっきーさんのおかげで手に入り、今のとこ、「ギター欲しい病」はカンゼンにセンプクしておりますので、今回は楽器屋には行かないかも。

CD ショップはヒマがあったら行こかな?
Screamin' Jay Hawkinsのまだ持ってないのがあればいーけど、あれも「波(?)」があって、入荷してるときは三種類くらいあるけど、無いときは一枚も無い!のでございますよ。ま、メール・オーダーとかしちゃえばラクショーなのは確かなんですが、なんだか、それじゃツマんないよな気がして・・・。

マチガイなく蕎麦屋には行くぞっ!
今回は西国分寺まで行こうかな?三鷹の桂庵とか、また中央線沿線で行くか・・・ でも、恵比寿→目黒のセンも捨てがたいなあ。
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