Rolling Mill Blues

Peg Leg Howell


03-09-08
D-D7-G-D-D-A-D-D というコード進行で(当然キーは「D」)8小節構成となっています。Yazoo( Yahoo! じゃないよん)のカイセツでは「G オープン」ってコトになってますが、(しかもキーを「G」としてるのはちと「解せない」ぞう)キーが「D」とすると、そこらどーなのよ?って言いたくなっちゃいますねえ。
この手の弾き方、ワタクシあまり詳しくないので、「G オープンじゃこんな弾き方は出来ん!」なんぞと断定するワケにもいかず、ちと迷っておるところでございます。はたして「G オープンでこの音の通り弾く」のと、あるいはレギュラー・チューニングで弾くのじゃ、どっちが難しいんでげしょ?

常日頃アコースティックに親しんでないと、こゆ時コマるのよねん。

ま、それはともかく、バックですすり泣くがごときヴァイオリンが、大正ロマンみたいなフンイキで(んなワケゃ無いんですが)この曲を独特なトーンに染め上げておりますぞ。
このヴァイオリニストは Eddie Anthony(生年不明)っちゅう Peg Leg Howell の相棒でございます。YAZOO 1012

Peg Leg Howell は、19世紀のいわゆる「世紀末」ってのにもちと間がある1888年の 3月5日、Georgia 州 Eatonton( alt. Eaton: ただし、Texas 州 Limestone County の南に位置する Thornton の南西 2マイルのところにある Mills Creek の近くで、Georgia 州ではないのでタブン誤解と思われます)で、Thomas Howell と Ruthie Myrick の間に生まれています。
小さいときから音楽に包まれていたようですが、実際自分でも演奏するようになったのは 21才からだ、と言われています。かなり頑強な体躯だったようで農園での作業ではそれが重要なワケですから、逆にかなりコキ使われたんでしょね。

彼自身が語るところによれば、1909年、つまり 21才の彼は、ある夜、ギターを手に取って弾いてみる気になり、それからは昼の農場でのシゴトと、空いた時間のギターが日常となったらしいのですが、ところが!でございます。彼の義理の兄弟と口論の末に、なんと右足を撃たれちゃうんですねえ。しかもまともな治療がなされなかったんでしょか、切断するハメになり、それが「Peg Legged(義足)」のハウエル、つまり Peg Leg Howell の名のもとになっちまったのでございます。
いかに頑強な体躯、とは言っても、片足が義足ということで、農場のシゴトが出来なくなり、Madison County(ん?どっかで聞いたよな・・・うんにゃ気のせいだべ、気のせい!橋なんざどーでもええ!)に近い肥料プラントのシゴトに変わってます。ただ、あまり長続きはせず、Eatonton の家に帰っていろいろなシゴトをやってたみたいですよ。
1923年には Atlanta に移り、他のミュージシャンと共演するようになるのですが、これぞ「世に言う(え?知らんて?でげしょなあ。このヘン知ってるったら、かなりな「戦前ものの」マニアでございますよん)」アトランタ・ストリング・バンド "Peg Leg" Howell and His Gang なのよねー。かなりなミュージシャンがそこに加わり、また去っていったりしてますが、そのコアとなったのがギターの Henry Williams、フィドルの Eddie Anthony、そして初期にはマンドリンの Eugene Pedin あたりが挙げられます。出入りしてた中には、Macon Ed、Tampa Joe(ただしふたりがそー名乗ってたらしいっす)なんてのもいたようですが詳しいコトは「?」でございます。
それなりのプレゼンスもあって、アトランタのブルースを一時期リードしたんじゃないか?とも思われたんですが、ドッコイ、1925年に肝腎の "Peg Leg" Howell が「密売」でパクられ、 River Camp Prison にブチ込まれてしまったことで終焉を迎えてしまったのねん。やっぱワルいコトしちゃダメなのねー。

それでも「お務め」を終えると、彼はまたアトランタに帰って来たのですじゃ。そしてストリートでやっとったのですが、それが Columbia Records の目に(耳に?)とまり、1926年11月8日、彼はスタジオに連れ込まれ、ムショで聴き覚えたらしき(?)New Prison Blues を含む 4曲を吹き込みしています。
このように、他のブルースマンの曲で、本人がまだ吹き込んでいないものもケッコウ録音しており、実際に自作した曲もありますが、案外ヒト様のを失敬してくるのも多かったようです。

年に 2度、春と秋に南部を廻ってブルースマンを録音しているコロンビアですが、1927年の4月にも Howell を録音しています。この時はギターの Henry Williams とフィドルの Eddie Anthony が一緒でした。
同様に1929の春まで都合 4回行われ、ギターの Henry Williams は次から「お払いバコ」になっちゃいましたが(その後1929年に監獄内で死亡)、フィドルの Eddie Anthony のほうはそれ以降もずっと一緒にやっています。また、1929年 4月のセッションにはマンドリン奏者( Jim という名のみがクレジットされています)が参加しました。この時のセッションに含まれていたのが(推測ではありますが)この Rolling Mill Blues のハズです。
でも、それもこの時がサイゴで、1930年のセッションでは、Peg Leg Howell 自体に「お声」がかからなかったようです。

もちろん Peg Leg Howell はそれでも Atlanta 周辺で演奏し続け、でも、それだけじゃ喰えるワケないんで(コロンビアのレコーディングもカネにはならなかったし)一方ではまたまた酒の密売に手を出していたようです。
でも、そんななか、1934年に相棒の Eddie Anthony が死んでしまいました。相棒を失った彼はすっかり活動を縮小していったようです。1952年、彼は 64才で糖尿病で、残る足も失ってしまいます。そこからは車椅子での生活となりました。

1963年に Testament Records によって、実に 34年ぶりに彼のレコーディング・セッションが持たれましたが、その 3年後の1966年8月11日に、慢性の神経疾患で入院先の Grady Memorial Hospital で死亡しています。彼は Georgia 州 Atlanta の Chestnut Hill Cemetery に埋葬されました。
この労働歌やフィールド・ハラー、さらにヒルビリー・ミュージックなどからも想を得て、いわば「ブルースの前段階(?)」を形成するに貢献した、でもローカルなエリアにとどまって、ビッグ・ネームとはなり得なかった Joshua Barnes "Peg Leg" Howell。
その Rolling Mill Blues に、なんとなく「哀愁」を見ちゃうのは、ただのセンチメンタルっつーものかもしれませんね。
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