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Sonny Boy Williamson II


03-09-19
この曲はもう説明不用の名曲でございましょ。少なくとも、ブルース・ハープを志したコトがおありの方でしたら、必ずや一度は耳にしておられるハズでございます。
あの Booker T & The MG's の Green Onion の構成を流用・・・うっぷす!い、インスパイアされ(ってなんかベンリなコトバやね)て生まれたこの曲は、Willie Dixon と Sonny Boy の共作とクレジットされ、後には数々のブルースマンばかりか、ロック系でもカヴァーされております。

シンプルながら力強いリズムに乗せて迫ってくるよなこの曲は、ハーピストのみならず、ブルースバンド、あるいはセッションにおいてさえ、明解な仕上がりを見せてくれるので、ケッコー好まれてるんじゃないでしょか?
特に Little Walter の My Babe のような、かなりその曲を知っているか、バンドでやり込んでいないとグッチャグチャになる曲なんてのに比べ、出だしのワン・ターンを聴いただけで、スグ理解出来て、その気になりゃあ即、インプロヴィゼーションに発展して行ける、っちゅー判り易さがスバラしい!
ただ、自分で選んどいて、こんなコト言うのはナンなんですが、ホントーのところ、彼のヴォーカルもハープも、ワタシの好きなトーンじゃないのよねん。
特にハープはヴィブラート気味のロングトーンの部分の音が持つ「鋭角」なササくれだった感じが耳障りなのでございます。
も少し滑らかなのが好みかな?でも、バッキング・リフはシャープで好き。

てなモンクたれつつも、やはりこの曲はいいですねえ。
なによりやってて気持いい!あ、そーは言ってもワタシゃあ自分ではハープはやりまへん。
MACさんに、ブルースマンたるもの、ハープのひとつも吹けんでどうする!と叱られちゃいそですが、そこは「ワタクシ、ブルースが大好きなロック・ギタリストで〜す」とはぐらかして、と。え?ダメ?

しかし、あらためて聴いてみると、バックのオルガン、意外とリズミカルじゃなく、コードで流してるのが多いんですね。しかもドラムがブラシだもんなあ。
そこら Booker T &The MG's とはちょとちゃうのねん(つーかワタシがオルガンでこの曲やるときは Green Onion スタイルでやってた、つーワケでございます)。ま、ワタシがオリジナル通りにやることなんてメッタに無いのみなさんご存知(?)だと思いますから、今後もそれで押し通しちゃおうっと。

いつもお前に助けてもらってるよ
俺ひとりじゃナニも出来ないんだ
お前に見限られちまったら
いそいでかわりを捜さなきゃいけない

洗濯して、縫い物して、料理して、床にはモップがけ
でもお前が助けてくれる
お前に見放されたらなんとか替わりを捜さなきゃ・・・

う〜ん、なんだかなあ、見捨てられたらスグかわりを捜そう、っての、そりゃあおメエ、オンナをロードーリョクとして見てねえか?人格はどーなのよ?

Sonny Boy Williamson
彼のEarly Yearsには濃ゆ〜い霧(だか煤煙だか・・・)が立ち込めておりまして、第一、生年すら定かではございません。それなのに、ナゼか誕生日だけは判っているのはどして?
様々な説があり、おそらく、1899年から1909年のどれか(!?)らしいのですが、12月 5日に生まれています。生まれた場所は、Mississippi 州の Glendora に近い Tallahatchie County の Sara Jones の農場で、Alex( alt. Aleck.ただし姉妹の証言によれば、時おり権威あるブルース研究者が主張する「Willie」と呼ばれたコトは「無い」とハッキリ否定されています) Miller( alt. Ford.ただし出典不明)として記憶されています。兄弟もいたようですがその名前などは不明です。姉妹の方は Mary(結婚後の姓は Ashford )と Julie(同じく Barner )でともに Tutwiler に居住していましたが、同地で火災のため1995年に Julia Barner 95才、Mary ashford 89才で死亡しています。それから逆算していくと、姉の Julia が1900年生まれ、妹の Mary が1906年生まれとなり、どのみち Alex の生年と推定されるデータの幅がその両方の日付を「前後」にハミ出しているため、彼女たちが両方とも姉、あるいは妹だった可能性も、ひとりは姉でもひとりが妹だった可能性もあるワケです。ま、最近の通説では、彼を1899年生まれ、とするのが主流のようですから、それでいくと、ふたりとも妹だったコトになりますが。
その、おそらく妹と思われる Mary Ashford の Living Blues magazine による(というか、掲載された)インタビューの内容を信じれば、幼いころから、彼は「Rice」と呼ばれていたそうです。本人は気に入ってなかったようですが、みんながそう呼んだ、と。それが Alex "Rice" Miller の由縁でしょう。
また、彼のハープは独学であり、「誰にも教わってない」そうです。1930年代を放浪生活の中で過ごしたらしく「1933年に父が死んだときにはもういなかったように思う。」また、「父は彼が音楽をやるコトを妨げたりはしなかった」そうで、そこら「怠けとらんで綿を摘め!」っちゅうてシバかれた他のブルースマンとはちょとちゃうよーですね。また、家族の中でハープであれなんであれ、音楽に関わっていたのは彼ひとりだったと。10代の彼はそのハープで自ら伴奏をつけながらブルースを歌っていたようですが、妹の Mary はブルースを忌み嫌っていたようで、たまたま彼が彼女のいた街に来て歌っていた時など、街で偶然、耳にしたことはあっても、わざわざ自分からそこに出向いて行くことはしなかったそうです。
おそらくは、その1930年代の前半と思われますが彼は結婚と離婚を経験しています。この時、子供はいなかったようですね。
1940年代には有名な Arkansas 州 Helena のラジオ局 KFFA の『King Biscuit Time』を通じて南部諸州にその存在を知られるようになって行きます。その彼の初吹き込みは1947年の Trumpet への Mighty Long Time で、続いて Ace への No Nights By Myself を経て、1955年には Checker に辿りつき、そこではより恵まれたバッキング、機材などにより、自身の古い曲を吹き込みなおしたり、また新曲も加えています。
ここでリストに加わったのが Nine Below Zero、Cross Your Heart、Mr. Downchild、Fattening Frogs For Snakes などです。Willie Dixon の Bring It On Home はほとんど彼自身の作が多い中では異色の存在かもしれません。しかし彼が本当にブレークしたのはヨーロッパ・ツアー、特に英国ツアーがもたらしたものでしょう。
Yardbirds と Animals とのライヴ・レコーディングがもたらした彼の栄光はしかし1965年の 5月25日に Arkansas 州 Helena で消えてしまいます。心臓の発作でした。



久しぶりに和泉クンからメールが来ました。
どうやら元気でやってるようですね。皮膚科にも慣れてきたでしょうか?
もしかすると 10月には弘前に遊びに行くかも?だそうです。
彼も蕎麦好きですからねえ。さっそく「一閑人」に連れてかないとね。
そー言えば和泉クンもホンダ・ベンリー CD50(だっけ?)で相馬村から林道に入り、秋田県側の山瀬ダムに降りて、っちゅー「ぼーけん」をして来たんだった。
どー見ても前傾ポジションのロード・タイプで「あの悪路の」山越えしちゃうんだから「えー度胸しとるやないけ?」でございましたねえ。
あれ?ギターや音楽のハナシ、ゼンゼン出なかったなあ。
permalink No.516

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