Why Baby

Mighty Joe Young


03-09-27
ほど良いリヴァーブのかかったギターのイントロに導かれて、どことなく Magic Sam を思い起こさせるホッピィなブーギが始まります。
1961年の Chicago 録音なのに、ナゼか N.Y. Wild Guitars( P-VINE PCD-2359 )に収録されているのねん。
なぁ〜んでか?(←古っ!) それはね、Bobby Robinson っちゅーオトコの存在がカンケーしてるのよ。

Bobby Robinson は South Carolina 州で生まれています。
ちょうどミシシッピー流域の黒人が Chicago を目指すのと同様、東海岸のルートは必然的に New York へと到達するワケで、彼が New York City に辿りついたのは1930年代の終り近くのことでした。第二次世界大戦が終結した直後の1946年に、Harlem 地区の Apollo Theatre から 1ブロックの 125th ストリートに自分のレコード店をオープンしています。そして1951年には自分の名前からとったんでしょか、Robin Records というレコード会社を兄弟の Danny Robinson とともに設立しました。
ところがドッコイ!なんと南部の独立レーベルがすでにその名前を登録してあったため、そのままでは法的手段に訴えられるコトが判明し、急いで Red Robin Records に改名するハメになったのです。
当初は Morris Lane や Tiny Grimes、Wilbert "Red" Prysock などのアーティストを抱えていたのですが、商業的な成功を見るのはいわゆる「ニューヨーク・ドゥワップ」の波に乗ってからになります。
Red Robin Records は1956年に消滅しますが、変わって Bobby Robinson 個人による Whirlin' Disc Records をその1956年に発足させています。そしてその翌年、1957年には Fury Records を、また同年、ふたたび兄弟で Everlast Records をスタート。そして 2年後の1959年には Bobby Robinson 単独で Fire Records、さらに 3年後の1962年にはまた兄弟で Enjoy Records を始めています。
最初の Red Robin と、それを受け継いだ Whirlin' Disc では主にヴォーカル・グループと R&B をメインとしていました。
Bobby Robinson 単独で作った Fury と Fire(こちらはレコーディングよりも、供給サイドをメインとしていたようですが)では Wilbert Harrison の大ヒット Kansus City を生み出すのですが、以前にも書いたとおり、Wilbert Harrison の SAVOY との契約がまだ有効だったことが判明してエラい目にあっています。契約が1959年の 8月まで有効なため、Fury は判決によって、それまで販売を凍結されてしまいました。そこでその拘束を逃れるためにデッチ上げ(というと人聞きがワルいですが)られたのが Fire Records だった、っちゅうワケでございます。
その Fire Records はやがてブルースのレーベルとして、Lightnin' Hopkins や、Buster Brown、Arthur 'Big Boy' Crudup、そして南部でのフィールディングで Lee DorseyBobby Marchan などを擁するようになっていきました。
そして Elmore James。そのエルモアを案内人(?)として、Bobby Robinson がシカゴでのオーディションを行った際に現れて、合格したのが、この Mighty Joe Young だったのですねえ。つまり、ニューヨークのレーベルだからひとくくりにされちゃったみたい。なんだかなあ。


さて、本題の Mighty Joe Young ですが、1927.9.23, Louisianna 州 Shreveport 生まれ、Milwaukee や Los Angeles にもいたことがあるようで、1940年代の終りころにはアマチュアのボクサーをしていたそうです。
1950年代の始めには Milwaukee のクラブで演奏を始めてており、1955年には Louisiana に戻って、JIffy Label という小さなレーベルに初吹き込みをしています。
1956年には Chicago で Joe Little and his Heart Breakers というバンドで演奏し、さらに Jimmy RogersBilly Boy ArnoldOtis Rush とも仕事をしています。
その一方で彼は Atomic H、Fire(つまりこの曲ね。カップリングは Empty Arms、Webcor、Celtex、U.S.A.などのレーベルに単発でシングルの吹き込みも行っています。
また Delmark の二枚の Magic SamWillie DixonAlbert King、ゲロゲロ(?)の Jimmy Dawkins、Tyrone Davis、Koko Taylor などの録音にも参加しました。
特に Koko Taylor とは1969年の Chicago での第一回 Grant Park Blues Festival での共演が評判となり、それはそのまま彼が出演するノースサイドのクラブにそれまではあまり見ることのなかった「白人の聴衆」がおしかける、という現象を生んだのです。
さらに Ann Arbor での成功によって1970年代には彼の名は大西洋の両側で知られるようになっていきました。

1986年には、ツアーを組んでいたバンドをそのまま自費でスタジオに入れ、アルバム製作にとりかかっています。
しかし、三曲を吹き込んだところで彼の首の部分の神経が圧迫された症状が悪化し、その治療のため中断することとなりました。
その治療には手術も含まれていたのですが、本格的な快癒にはほど遠く、歩行できるほどには回復したものの、逆にその手の指は自由にギターを弾けないような状態になってしまったようです。したがって1990年代にはほとんど姿を現していません。彼は手術前の状態に戻ることを願い、リハビリにはげんでいたのですが、ついにその望みがかなえられることはありませんでした。
それでも彼は最後にシンガーとして1997年の Chicago Blues Festival にその姿を見せています。

1999年の2月から入院していた Mighty Joe Young は、再起を賭けた脊椎の手術の術後の合併症により、同年の 3月 24日に死亡しました。



今日はセッションでした。
以前からセッションでしたが、よく来てくれていた一人が先日急死し、今日はその人を偲んでのセッションとなりました。
しかしまあ、ワタシより若い人が死ぬってのはなあ⋯みなさまも日頃から健康の維持には留意してくださいね。

ところで、前回と同じくホットレイル搭載のハムバッキング・ストラト(トレモロ・ユニットはウィルキンソン)ですが⋯やはりウィルキンソンはクセになるわ。 あのスムースなアーミングに染まっちゃうと、Fender 純正のトレモロ機構は「野蛮」すぎるざます!
ま、使えない、ってコトは無いんですが、やはりコイツと比べちゃうと勝ち目はおまへん。
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